正直萎えちゃってるんですけど瞬間沸騰で苛っときてツイッタとかはてぶで書くと言ったので書きます。言ったからなぁ。頑張るぞっ。


何についてかというと


戦争の体験談を語るわ その1 無題のドキュメントとか


戦争の体験談を語るわ 前編 - まめ速とか


それらについた果て部、じゃないはてぶ


はてなブックマーク - 戦争の体験談を語るわ その1 無題のドキュメントとか


はてなブックマーク - 戦争の体験談を語るわ 前編 - まめ速についてです。

はじめに

はてぶでid:y_arimさんにも聞かれましたけど、私はユーゴ紛争については特に知っているわけではありません。というか他の紛争についてだって知っているわけではありません。軍事にも疎いです。

創作か実話か

私はこの話が本当の話であるのか創作であるのかは知りません。創作だと分るためには、「私が著者本人で創作だと知っている」とか「本人ではないけど著者を知っていて創作だと分ってる」といった場合(実際はどちらでもありません)のほかに「当時の内戦の状況から考えて明らかにおかしい事態(物理的に不可能な出来事とか)が書かれていて、しかもそれが単なる書き間違いではないと確信を持てる」からといった状況が考えられますがそういうことはありません。探せばあるかもしれませんが、上に書いたようにそんな判断が出来るほど内戦について知らないからです。


というか、書かれているようなことは実際あっただろうと思います。


とりあえずいつものように思いつくまま流れのまま書きます。整理するのが苦手なので。いらちというか、はい。

創作である場合

私はぶくまのコメント書いたときも、そして今これを書いている時点でも「どちらかと言うと創作ではないかな?」と思っています。結論は出ませんがそっち寄りということです。以下に、そう思った、あるいはそう感じた理由を書いていきます(
ハッキリ言ってモヤモヤしているままなのでこれだっということは書けませんが、理由らしいことを書いていきます)。


「そりゃ逆だろ」と思われるかもしれませんが、最後まで読んだ時の私の感想が「なかなか良くできている」というものだったというのが一番の理由ではないかと思っています。


正直「よくできている」という以上かもしれません。結構長いにも関わらず最初から最後まで一気に読んでしまいました。そして小説を読んだり映画を観終わったあとに
いつもやるように反芻しました。そこで思ったのは
「キャラ(特に少年たち)が立っている。というか立ち過ぎている」ということと「話の展開がテンプレのような定型」であるということでした。さらには描写が上手い点。ボスニアで向うの子供たちと打ち解けてからの幸せな時期”や“内戦”のシーンもさることながら“保育園で母親の迎えを待っていたシーン”の描写(さらに言えばとうとう迎えがこなかったときの彼自身についての描写)。どれをとってもそつがない


ということで悪いことはない。まったく。そこが、私にとっては逆に不自然に見えました。


私は小説読んだり映画を見たとき、感想で「リアルに感じた」などとよく書きます。「リアルだった」ではありません。私が「リアルだ」と言うことができるのはその描かれている世界を知っているか、あるいは直接は知らないものの、日常経験しているところからほんの少し延長すれば理解できるであろうものについてのみです。


では、殆ど知らない経験もない世界を描いた作品についてなにを持って「リアルに感じた」などと思うのか。難しいですがなんとか書かなければいけないのでちょっと考えてみました。


現時点での、と付けておきますが、私が全く知らないはずの世界を扱った表現に対して「リアルさを感じる」のはその表現のどこかに「引っかかり」を感じた時だろうという結論がでました。でました。


つまり、自身の経験の中からは出てこないような描写を、前後の流れと比べて無理のない形で見せられた時、なぜか「リアルさ」を感じるのです。「あれ?いまのは何?」という感じ。


これは多分、本当に知っている人間だからこそ出来た描写なのではないか?と無意識のうちに判断しているのだろうと思います。犯人だからこそ知り得たもの、みたいな。その世界を知っている人間だからこそ作り出せた表現。それをみて引っかかりを覚え、お、こりゃ本物じゃないのか?と感じているのだろうと。もちろんうまい作り手は実体験がないにもかかわらず、故意にそのような「引っかかり表現」を挿入することもあるでしょうが。


ということで、ようやく本題にもどりますが、この2ちゃんに書かれた手記(正確には「手記からの抜粋」ですかね)で書かれている描写はどれもそつがないけれどもこの引っかかりがまったくない。あまりにもすんなりと読めてしまう。いつかどこかで読んだことがあるような文章しかないのです。


立ち過ぎではないかと思う程キャラがたっている、言ってみるとステレオタイプ」な登場人物たちが、どこかで見たような「定型の展開」、これまた言ってみれば「テンプレート」の中に綺麗に配置されていて、しかも個々の描写は全くどこをとってもそつがない。が、そつがないだけで「これこそ現場を見た、体験した人間から出てきた言葉だ」というものがどこにもない。一カ所もない


ということで、私はこれは「けっこう頑張って調べて書かれた創作ではないのかな?」と感じています。


実は他にも、こどもの足とはいえ2時間歩かなきゃならない距離にある、それも見知らぬ外国人(ま、この親子のほうが外国人ですけど)に泊まらせたり、そもそも内戦が近いのが分っていながら安全な場所に避難させなかった父親については殆ど異常な感じがします。自然科学系の研究者、ということですが、一般的には研究体制・設備などが整っていないいわば第三世界から、西ヨーロッパやアメリカ、日本などに行くことはあっても日本からボスニアへ、というのはかなり珍しい(分野にもよるでしょうが)。また父親との再会の描写もない。当時そのような日本人がいたという情報も目にしたことがない(あまり熱心にみていなかったので当たり前かもしれませんが)。など、父親がらみで変だと思う点はありますが、創作だと感じる決定的な要因のはやはり文章そのものです。


とはいえ私はあれが創作だという客観的な証拠は何一つ持っていませんので、確定はしません。


ただ、これが創作だとすれば、「実体験に基づく手記である」などという嘘をついていることになります(しかも微妙に逃げの手も打っている)。創作だとすれば、内戦について知ってほしい、などと書かれていますが、実際の目的はそこにはないだろうと思います。そういった文章ではないし、もし本当にそれが目的ならこのような形での公開はするべきではなく、創作であると言いきった方がいい。同じような内戦を扱った『石の花』(はてぶでこれを引き合いに出したやつの目は節穴でしょう)も創作だし大量虐殺を扱った『夕凪の街 桜の国』だって創作ですが、創作であるという事実はなんらそれら作品の価値には影響していません。逆に体験記、などと言いつつ創作を発表するなら、虐殺や内戦などを扱うべきではないでしょう。無神経にも程がありますし、そんな人が何を書いたってちゃんとした作品をかけるわけがない。


ただ、創作だと言いきったとしても、私はこの作品について出版するだけの水準には達していない、習作どまりの出来だと思います。何しろステレオタイプな登場人物をこれまたステレオタイプな表現でもってをテンプレに流し込んだだけ、ですから。


もちろんステレオタイプな子供たちが内戦にテンプレのような展開に沿って巻き込まれた、という可能性も十分あります。が、やはりこのままの形での出版は無理でしょう。現地での追加取材、インタビューに写真などを追加し、実話です、と売り出さないと。


ただもう一点、「ユーゴ内戦について知ってほしい、伝えたい」ということが目的ではないだろうと私が考える理由があります(となるとこれをかいた人は私にとってはクソ野郎ってことになるんですが)。が、それについては後で(次かな?)書きます(それこそが私の怒りの原因です)。

実体験である場合

今日はここまで。暑いだるいねむい。続きは明日以降なんとか書いていきます。