これは、書かねばなるまい

もうね、延々とね、ずーっとね、言い続けてるからね(鳥肌中将の口調でよろしく)。小学生のころからね、言い続けてるからね、ここ(はてな)にも書いたかもしれんけどね。

皆さんは彼の分まで元気に生きてほしい。



だが。コピペだが。ソースなどないが(滝川ルネッサンスだが)。だがそれがどうした。


もうね、あほかと、ばかかと、くずかと。この手の糞安いドラマの糞安い台詞を本気で口にするやつなんてみんな死ねと。芯自前と。


僕はですよ、他人(ひと)の分まで生きるなんてですよ、たとえほんの一部だけであったとしてもですよ、できませんよ。いや、僕ができる出来ないじゃないな。逆の立場になって考えると。例えば僕が今直ぐここで死んじゃって、その後誰かが葬式かどこかで、僕の分まで生きましょう、生きますよなんて言ってるなんてね、ふざけるなと、既に死んでるくせに頭に血が上ってぱんぱんになって破裂して憤死しそうなくらい頭に来るな。


あのね、具体的な計画かなにかが進行中で、それを完成させるってならある程度理解できる。でもね、“○○の分まで生きる”なんてね、許せんよ。親子だろうが、親友だろうが、双子だろうが、だれも誰かの代わりに生きるなんて出来ないからこそ、個々の命が重要なんだろうが。それが取替えが利かない、かけがえのないってことの大本だろうが。


こういうことを書くとfinalventyさんなんかには言葉狩りとか思われるかも、かも、かもしれんけどさ。僕はちょっとした言葉遣いの、何気なく発したちよっとしたちーさいところに(にも?、だからこそ?)ね、その人が意識してないようなところ、本心というのとは少し違う気もするけど、そういうものが見えるもんだと思ってるん。そういう点からすると、この「だれだれの分まで生きる」という言葉はね、許せん。どんだけ傲慢やねんと感じる。小学生のころこれで父親と大分揉めた(つまり大昔からこの言い回しが人口に膾炙してたということです)。あの人はそんな風に言うなといったな、確か。今でもその意味が分からんけど。


あれや、この校長(ほんとに言ったかどうか分からんけど、発言者をイメージをしやすくなるのでね、使います)の分まで生きてあげますって人が1万人分署名で集められたら死ぬか?おっさん。死ねるかおっさん?と。こういうことですがな。自分の意志で命を賭けてその結果死んでしまった人について、その人の命を無駄にしないようにならまだ救いがある。けどな、その人を殺した本人やそれに準ずるような連中の口から、彼の命を無駄にしてはいけませんなどという言葉がいけしゃあしゃあ(!)と出たらどうよ(大本営とか近いな)。ありえんだろうが。少なくとも僕は死んでからさらに憤死する。大した人生ではないけど、それでも憤死する。ちんけなこの自分の命にそこまで執着したって恥ずかしくはない。


というかこんなことをああいう状況で発言するなんてカス野郎の人生なんてな、この俺が糞みたいな日常の片手間に生きてやるわ。1日3分くらい割いたら十分やろがと。それでありがとうとか抜かすのかおっさん。なら死ねよ直ぐに。子供が死ぬたびに、己の保身まっしぐらな糞年寄り蛆虫が湧いて来るけど、お前らが死ねば爽快さを感じる人間いっぱいいるで。歓迎されんで。人が死んでんねんで!


あかん。頭が重くなってきた。無理。寝る。