まだ半分くらいですが

で、ここ数日生き返り(行き帰りの誤変換だけど合ってる気がするな…)に電車のなかで読んだりしている『ラ・イストリア』ですが。


やべぇ、こいつぁおもしれぇよ。この10年ほどは本自体あまり読んで来なかったし、SFなんてのを熱心に読んでいたのはずーっと昔、大昔、小学や中学のころだし。ということでこのSFの空気がとても懐かしい。


いや、懐かしいって書いておいてアレですが、数年前『マルドゥックスクランブル』は読んだのです(ウフコックがとっても好き)。『ラ・イストリア』は間違いなくあれより面白い。アロンソとクラウディオ、フアニートにスサナとイサベリータ(幼女!)、そしてブランカ。この家族の描き方がとてもいい。こんだけ数がいるのに誰一人無駄な感じしない。当初から不在のゴッドマザーも効いているし。


気になるのは書き方。神の視点とアロンソの視点とクラウディオの視点がつぎつぎと入れ替わる。読んでて特に変な感じはしないけど、こんな書き方をしているのってほかに読んだことあったかなー?と。カメラが切り替わってると思えばそんだけのことかもしれない。でも、なにか意図があるはずだしな。


そういえば昨日読んだところには神の視点(たぶん、ね)で書かれた歴史の解説があった。中南米の歴史なんてまーったくと言っていいほどなんも知らないのでちょうど良かった。場所が冒頭じゃなくて真ん中というのが気になるけど、映画だとinterludeあけに当たるのかもしれない。というかあれをまんま実在の歴史として信じていいのかどうか怪しいんだけどな。なんせいっちゃん最初にhistoriaについて釘がさしてあるしなぁ。


で、内容ですが。


クラウディオぶん殴りてぇ!もっすごムカつく!お、お前でかいから(180超)ちょっとかがめ!


みたいな感じです。稔氏の思う壺に頭から突っ込んでいるような、あるいは手のひらの上でゴロゴロ転がされているような気がしてならないのですが、仕方ない。あいつはむかつく。許せん。キー!


現代の日本に生まれ育ちましたわたくしからしますと、どう見てもアロンソ=まともな人、クラウディオ=いかれぽんちという風に読めるわけですが、これはわたくしに限ったことではないのでしょう。私たちからみて異様に見える精神構造をみせることでクラウディオが生まれ育った環境が今のものとはぜーんぜん違うのだよ、ということが分かります。分かるけど、やっぱり許せん。


で、このクラウディオから見たアロンソアロンソ視点のときに知ることができるアロンソの内面、逆にアロンソから見たクラウディオとクラウディオ視点のときに読めるクラウディオの内面、これらを比べてみると、意外と齟齬がないように見えます(誤読?)。いちおうこの二人はほかの登場人物とは違いって高等教育を受けているという設定なので、お互い相手のことをよく見抜いてるんですね、という風に読めないこともない。でもなぁ。ほんとはどうなんだろうか。これから何か変化がでてくるんだろうか。


で、これを読んでておもしろいことを連想した。本作がどんどん盛り上がってきているさなか我ながらまったく緊張感のない妄想で恥ずかしいんだけど書いておく。


現在、亜紀先生を大蟻食と呼んでます。つねづね哲也先生にもなにかあだ名をつけたほうがいいんじゃないか?と思ってました。それも同じ珍獣系でそろえればいいのになぁと。そこに『ラ・イストリア』ですよ。中南米ですよ。そうですよ。アルマジロでいいんじゃないのか?亜紀=大蟻食、哲也=アルマジロカップリング、どうでしょう。


たしかぬいぐるみもいたはずだし、いいんじゃね?前に考えていたカモノハシという案は哲也先生のイメージとちょっと、というかだいぶ違うし、引っ込めます。まぬけっぽくもあるし格好よくもあるし。とぼけているようで鋭いような感じもするし。


しかし、どうでしょうってのもアレだな。もう一人だけでもアルマジロ先生と呼ぶわ俺。頭ン中だけでも。大佐は似合わないわ。