もうネタばらしまくりなんで未読のひとは読むべからず。と。

つい先日ようやっと読み終えた。


下りの船 (想像力の文学)

下りの船 (想像力の文学)




なんというかすっごい時間かかっちまった。途中で『木曜日だった男』とか浮気したし。蝸牛リーディングみたいな、うにょーうにゅーとジリジリ進みつつときどき殻にこもって寝ちまったりしながらようやく最後のページ最後の文章にたどり着きました。


ま、通勤電車の中でハードカバー読むのはちと辛いし集中できないしバスはそもそも酔ってしまう。ということで長距離移動の電車内か布団の中だけということになるけど、どちらも大半は眠ってしまうのでここまで遅くなりました。これはこれでいいところもあるけどやっぱちゃっちゃと読んだ方がいい点もあるような。仕方ないけど。


で、だ。


佐藤哲也先生酷いよっ!仁木稔さんのトリニティを超える酷さだった。ダメージおおきすぎて気持悪くなった。ねーわ。ありえへんわ。あかんで人としてどうなん熊の所為にしたってあかんやろとか頭をよぎったけど大人なので言いません。


ふう。おちつけ。


去年の11月ごろに読み始めた当初から(って4カ月も…)感じていたことですが、やっぱりこれは迫害されるユダヤ人の話とすごくよく似ている。とくに宇宙船に載せられるまでの経緯はそのまま町からゲットーへ、ゲットーから強制収容所へ送られるユダヤ人のようにしか見えない。


実際、アヴを拾って育てた老夫婦が強固な信仰心をもった流浪の民と受け取れる描写がなされているし、アヴの村を通って北へ逃げた人たちの様子からもほぼ間違いない。
ただしこれは地球編での話。植民惑星についてからはそのような区別はなくなっている。


で、いきなり書きますけれども、アヴは『シンドラーのリスト』で出てきた少女、あおモノクロの画面のなかでたった一人だけ赤い服を着せられていたあの少女そっくりだと、そう思いました(『シンドラーのリスト』より『石の花』のバッドエンド版と言った方が近いかも。巡回教師とか)。結末もまあ似たようなものだし(ある意味全然違うけどさ)。あの女の子が少し成長していたらこんな感じの子になっていたのかもと。


『下りの船』にはアヴの他にも名前を与えられない子供たちがたくさん出てくる。そのうちの一人は作者だけでなくそもそも名前がつけられることがないまま世界に放りだされたような子どもだ(ひょっとするとアヴはアヴを襲った子供たちも含めた彼らすべての○○かもしれない。子供だけでなくすべての人の○○かも。○に何を入れるか今わからん)。


大人でも名前が与えられている登場人物は少ない。地球では名前のある人物はアヴしかいないくらいだし。


ということでアヴはこの小説において特別な存在なんだけど、それとは別に出自というか登場の仕方から老夫婦に育てられて孝行息子に成長するあたりはなんというかこう聖書にでもでてきそうな(読んだことないけど)、どこか神聖な存在と感じられるように描かれている。ま、日本だったら桃太郎か。どちらにせよどこか通常の人ならざる存在のような。


で、最初に拾われた老夫婦をはじめとして、行く先々でいろんな人に助けられる。よい人に会う運を持っている。あるいはその人たちが“良い人である瞬間”(どんなに苦い状況にあっても他人に対して優しく振舞える瞬間があるだろうという意味)にあう運といってもいいけれど。泥炭採掘でもそこから脱出する過程でもヤゴとヴィリ夫婦にしても。


なので、アヴだったらなんとかなるんじゃないかと、苦境を脱して、それこそヤゴとヴィリ(この小説で殆ど唯一、平和で幸せな登場人物たち。近い将来どうなるかわからない、危うい幸せだけど)のように貧乏でも幸せな暮らし(石炭を拾ってた女の子のような人と出会ったりしてですよ!)にたどり着くことができるんじゃないかという期待をずーっと持つことが出来たんだけどもあれだよまったくこのやろうねーわまったくほんとくそったれ。


最後から2番目の章『肖像』がなんで必要なのか、いまのところ引っかかったままです。トドメ刺さなくてもいいじゃないかと。十分堪えてるのに。無理矢理にでも距離を取らせるためかな。そして船は行く。というかそれでも船は行く。と。


僕は京都へ向かう電車のなかでそこを読んだことを覚えている。かなり揺さぶられたからはっきり覚えている。


そこというのはアヴがヤゴとヴィリのもとを去り、泥炭採掘地から一緒に逃げてきた仲間を探しに町へ向かう場面。これはもう終盤に近いところなんだけども、アヴはそこに至るまでずーっと、ほんとにずーっと、殆ど言葉を発していないといっていいほどそういう描写がない。名前を与えられた特別な存在なのにも関わらず(だからこそ?)。


実際は「はい」とか「いいえ」なんてのは書かれていたはずだけど、基本的には周囲の状況に流され翻弄され、ときどき善き人、あるいは人々の善い瞬間に助けられて生き延びてきた。


そんな寡黙な少年がいきなり自分の言葉を、はっきりと、強く発する。それも命の危険を冒しても仲間に会いに行きたいという内容の言葉を。老夫婦と村で暮らしていたころのように善良で真面目なんだけども、いつだっておろおろしておびえているような印象しかなかった少年が、ヤゴたちの反対をおして仲間に会いに行くと言う。


アヴは書かれていないだけで、ずっと成長してきたのか、それともそういう素地だけ出来ていたところに、脱出の途上で死の淵までいって蘇ったお陰で一皮むけたのか、わからない。


どちらにせよ、ここでアヴは一人の立派な大人になっていることが分かる。もうね、危なかったですよ電車で。わけのわからない動揺に襲われましたよ私。


ずっと隠されていたのか、それともそういう人間だったのか、いずれにせよ上手いよ。


去年も書いたけれど『旅程』の最後に出てきた

あなたは重力を感じている。

p31




よりも強烈に効いてる。こっちは全編にわたって仕掛けられた(言い方悪いかな)だけあって強烈。





「Sense of Wonder」が無い。だか感じられない、というのをtwitterで見たけれども、それは当たり前だろう。意図的に排除しているんだから。どこまで行っても人間は変わらず愚かな存在だということを描くのだからそんなものないに決まっている。


そもそも巨大な宇宙船で遠い惑星に植民させるということ自体、バカバカしい。愚かだ。巡回教師が子供たちに話したことが本当なら、この植民は、巨大な都市に住む連中によって、辺境に暮らす可哀想な貧民を救うために人道的な救いの手として行われている可能性だってあるし(だって特に重要な資源があるわけでもなさそうだし)。科学技術が極まると同時に愚かしさも極まるというか。


でもね。上に書いた一カ所。アヴが自分の意志を明確に言葉でもって示すところはね、奇跡だろ。あれこそワンダー以外の何物でもないだろうが。


ま、どういう文脈で出てきた言葉か知らんし、人の評価にのっかってなんか書くのもダメダメな気がするからこれくらいにしとくけどな。


で、書かなきゃいけないと思ってまた頭から読み返してて気が付いたんだけどね。


2つ目の章『家族』


学校では教師が憎悪と復讐について話していた。あるいは寛容と友愛について話していた。憎悪がいかに蔓延し、寛容の精神がいかに衰退したかを子供たちに話して聞かせた。いかに多くの者が昨日までの友愛を忘れ、明日の復讐を考えているかを子供たちに話して聞かせた。話すついでに宿題も出した。この世界で今、自分がすべきことを考えなさい。


 アヴは宿題の答えを求めて考えた。

p10-p11




最後から2つ目の章『肖像』


そしてこの理不尽な世界でよりよい人間であるために、少年は自分がすべきことを考えた。自分には選択ができると考え、自分にも何かができるはずだと考えた。もし何もしなければ、自分もまた理不尽に与した人間になると考えた。

p224




馬鹿な選択だったかもしれないけど、というか馬鹿な選択だったんだけど、アヴは善く生きたんだよ。震えるしかないだろうがボケ。


先生、ウェブサイトのLINKの一行目、隠れてません。見えてますよ!