ちびちび読む。


寒村から追い立てられ、巨大な難民キャンプへ詰め込まれ、ピラミッドのような宇宙船に押し込まれ、どこかの惑星に着陸したところまで。


いろいろ面白い。


短めの文章は、これでもかっこれでもかっというほど韻を踏んでおり、というかほとんど詩であるかのように踏み続けており、ただ漫然と読んでいるだけで自然とリズムに乗ってくる。


そしてその文章の中身はといえば、ひたすらに淡々とした描写が続くのみであり、感情的な単語はいつまで経っても現れない。


面白いのは、淡々とした描写が、リズムを持ってゆるやかな起伏の上をコロコロと転がるようにつながっているだけなのに、それを読む者は、そこに現れる光景に茫然としたり、うつうつとしたり、どきどきしたり、する(これは『サラミス』でも感じたことかもしれないけどワスレタ)。


わたくしが思いますに、亜紀先生も情報量の多い文章を描かれますが、哲也先生の文章もまたかなりの情報量を含んでいるのではないかと。


ただその種類は違うらしい。どう違うのかは例によってわたしにはよくわからない。とりあえずいま読んでいる最中の『下りの船』についてだけ言えば、なんというか骨組みしか書かれていないような感じがする。


違うかな。骨組み骨格というか、もう少し細かく、格子点だけを丁寧に、そして感情を乗せることなく描写することで、表現したい総体を読者のあたまのなかに映し出す・描き出す・作りあげる。どれがいいのか分からんけども、それは読者自身による想像によって、格子点の間を埋めていくことで完成するわけで、そういう意味では共同作業ということになるのかな?たぶん。哲也先生はその辺はえいっと読者に投げて、自由にさせているような。


亜紀先生のばあいも似ている気がするけれども、格子点といったようなカチっとしたものではなく、もっとやらかい方法で密度を上げているようなそんな。感じ。


韻を踏むこと以外に、一文いちぶんを短く、そしてたぶんその長さもある程度そろえることでリズムを作りつつ、しかも対象を見せるために必要な最小限の格子点を押さえて、当然その順序も練りに練られているに違いなく、といったことを考えるとこれはもうとんでもなく難しい、だからこそとんでもなく楽しいのかもしれない、パズルを作っていくような作業ではないのかなと想像して、いいなぁ楽しそうだなぁと思いました。今回わたし。


ディファイアンス』はソダーバーグの『ゲバラ』と違って被写界深度が深い(だったかな?)とかファーストガンダムはいまのアニメーションと違って使われている色数が少ないとか、そういうものの見方というか視点が、この格子点の作業にも効いているのだろうと思うと、この本に書かれている構造は一体どういう意味、目的を持っているのかという疑問に繋がる。こういう構造解析はすごく面白いかもしれない。たいへんだからやらないけど。


れ?なんかいつも通り散漫だな。ま俺だしショウガナイ。


これまでのところで個別具体的な点でよかったと思ったのは以下。
ピラミッドのような巨大な宇宙船が着陸するところの描写で

分厚く束ねられた爆音が転がるようにして褐色の土地を渡っていった。

『下りの船』 p22

これいいねー。爆音が転がるってのは、実態を知らないにもかかわらずすごく納得がいく、リアルな感じ。


もっとすごいのはワープ航行(だろ、あれはきっと)するところの描写。長いので省略するけれどすごいよー。

最後の一点はもっともっともーっとすごい。


この小説、序盤ではアヴという少年だけが名前を与えられていて、そのほかの登場人物は一切名前がない。顔もない。人々は群衆として描かれているだけであり、アヴも寒村から追われた時点で消えてしまう。アヴを育てていた老夫婦が外国語なまりで異なる信仰を持っている、ということもあってどうしてもユダヤ人の迫害、ホロコーストのイメージがあるんだけど、どこだったか、表情を失った群衆という描写があって、これはスピルバーグの『宇宙戦争』のイメージも含まれているような気がした。


また散漫になってるな。何が言いたいかと言うと、この小説の序盤は『宇宙戦争』よりさらに一歩すすんで、トム・クルーズさえ登場させていないということ。


そういう個々の顔や名前を持たない、不条理にも難民にさせられた雑多な群衆を延々と描いた文章をずーっと読んでいると、自分もその中にいるような気持になってくる(たぶんそういうカメラワークというか格子点の組み合わせが選ばれている所為なんだろうけど)。


そんな気分になっていた、ちょうどそんなときに、これが来た。難民をめいっぱい詰め込んだ宇宙船がどこかほかの惑星に着陸したと思われる、その瞬間の描写。

船は沈黙する。あなたは重力を感じている。縮めていた手足をゆっくりと伸ばす。関節が痛い。どこかで子供が泣いている。咳をしている者がいる。誰かが何かを罵っている。強ばった手で、あなたは自分の荷物を探り寄せる。荷物を抱えて、おそるおそるに立ち上がる。あなたは見知らぬ惑星にいる。

『下りの船』 p31




ここ!



さっき書いたように、ここまでのところこの小説は名前も顔もはっきりしない人間しか出てこない。そういう人々は、例えばこの引用した短い文章の中にも書かれていて

どこかで子供が泣いている。

という“子供”だったり


咳をしている者がいる。

という単なる“者”だったり


誰かが何かを罵っている。

という“誰か”だったりする。



そこへいきなり


あなたは重力を感じている。

あなたは自分の荷物を探り寄せる。

あなたは見知らぬ惑星にいる。




ですよ、奥様!!畳みかけるようなそれでいて流れるようなこの連続攻撃。文学のジェットストリームアタックですよ。ドムですよドム。


読んでいた俺が、いきなり登場してるですよ、ここで。難民のなかの名もなき一人として。放り込まれたというべきか。


これを、しれっと書いてる哲也さんが憎いっ(嘘だけど)。多分興奮してたんじゃないかなぁ。俺天才じゃん、とか。


実はこれを読んだときには、どかんとくるような衝撃があったわけでもなく、というのもその時点ですでに自分がその中にいるような気持ちになっていたわけで、しかし後からじわじわときたのですよ。これすごい。なんともいえぬ感覚だった。初体験だ。ほんと。


完全に手のひらの上で転がされていたことに気が付く。これさ、あれだよな。『ミカイールの階梯』のユスフ・マナシーが教主やってた教団みたいな。言葉や音楽で人を操るというか軽く洗脳する技術。あれに似ている。あれは具体的な説明はなかったけど(それでいいんですよもちろん。読者の想像に任せるべきところでしょう)、具体的な例がいまここに。といった感じで、感慨深いというかそういう意味でも衝撃。