長くてなかなか追いつけませんっ

いやぁ、あんとに庵さまに貰ったコメントを返すにあたり気がついたというか再認識したのだけども、sk-44さんとこって読むと勉強になりますね。さらに大蟻食先生とのやりとりを見ていると将棋の勝負をしているような、隙があったらぶっ刺す!みたいなやりとりで面白いですねぇ。かつての「文句があるなら前へ出ろ」が復活したかのようです。あのときと違うのはメールではなくトラックバックの撃ち合いという点で、第三者に対してよりオープンになった分、ライブ感といおうか、緊張感が増してよい感じです。それはともかく。

地を這う難破船 “逆鱗と道徳”の私的まとめ

いつも殆ど骨しかないようなエントリーですけど、そこからさらに、ここは、というところを抜き出してみます。

問題は、ある表現が誰かの逆鱗に触れたとき、強制力の行使としての「自力救済」を私たちは認めるか、ということです。認める、というのが私の立場ですが、自力救済の範疇に人殺しが含まれうるか。むろん含まれますが、自力救済の範疇に人殺しが含まれることは認めない、というのが私の立場です。

(強調は私による)



「自力救済」救済というとなんだか助けてもらうという感じがしてきますが、自力です。私はこの言葉を「自分を守るために、あるいは傷を回復させるために自ら直接的に行動を起こす」といった意味に取りました。


sk-44さんは自力救済に人殺しは含めないと書いておられます。「sk-44さんが認める自力救済」の範疇には含めない、ということでしょうか。



多分殺人は救済のなかでもひとつの極値なのでしょうが、それ以外であれば大抵のことはお認めになるということでしょうか。もしお認めになるのであれば、その人殺しは含めない、という一線は刑法に触れるか否かという一線とは異なるということになりますね。これについては確かあとで出てきたはずです。


私はどうかな。認めるかな。緊急避難と呼んでもいいような状況になればたぶん認めます。緊急避難、と書きましたけどこれは別に刑法とは関係ありません。“私はもうこれいじょう、むりっ”という状況です。あいまいですね。これは実際なってみないと分かりませんね。

自由で寛容な社会だからこそ「逆鱗」を私たちは肯定しなければならない。肯定するためには逆鱗を可視化しなければならない。そしてそのことが、差別構造を撃つことでもある。撃つためには、的を定めなければならない。他者の逆鱗を「まぁまぁ」となだめすかしたり無視したり、まして嗤ったりすることが寛容ではない。そして差別構造は、他者の逆鱗をインビジブルとするために機能する。逆鱗の存在を不可視として扱うことが「他者」を「他者」と見なしていないということであり、すなわち差別です。

(強調は私)



つい全部まるごと強調してしまった。これはよーく分かる。読んですごくスッキリした。私は「まぁまぁ」が大っきらいですし。これを言ったやつは怒りの相手と同じかそれ以上に腹が立つ。死ねと思う。思うだけです。

逆鱗を持ち合わせる者としての「他者」の存在と、逆鱗の存在について示唆したところ、見事なサンプリング調査になった、男たちの逆鱗に触れた――それはそうです。男たちの逆鱗に触れることを怖れて、殊に男らしい男たちの社会から爪弾きにされた男たちの憎悪のターゲットにされることを怖れて、女性は自身の逆鱗について沈黙する。

(強調は私)



これは、あれですね。大蟻食先生のエロゲ関連最初の日記(09年5月14日)ですね。はてぶコメントなんか恐れるな、恐れると相手の思うつぼである、と大蟻食先生も書いておられたな、そういや。

人は、あるいは男は、逆鱗の話には鈍感です。殊に他人の、「他者」としての逆鱗の話には。そして「他者」の逆鱗の話に敏感な男は、強姦ゲームの強姦される女性のことを思って抜いている。犠牲者としての「他者」に萌えている。

(強調は私)



男は、とありますが私おとこですが、そんなものに萌えません。吐き気がする。怖気がする。私はぶっ殺しかねないです。あ、でもこれは自力救済じゃないのか。ま、いい、別に。

他者の逆鱗を市場の存在において却下し、あるいは「表現の自由」で踏み倒して、あまつさえ自由で寛容な社会を自画自賛する言説/表現について、身内でシメておこうとしないから他者が自力救済に迫られる。




これは大蟻食先生の挙げたカリカチュアの話に当てはまるのかな。身内がみんな揃いも揃って却下し踏み倒して問題ない、と考えた場合戦争になるのかな、これは。ま、相手の自力救済に人殺し≒戦争を含めないでください、こっちも含めないから、といっとかないと危ないな。

自由で寛容な社会は、他者の逆鱗を認め、逆鱗を持ち合わせる存在としての「他者」を認める社会です。そのことを不可視化するのが差別構造であり、斯様な不可視の差別構造の再現前として表象はある。殊に「ある種のポルノ」のような表象は。強姦ゲームは。「自力救済」を私は認めます。しかし、誰かが自力救済に迫られる前に――そして多く自力救済は結局のところ当人さえも救済しないのだから――自由で寛容な社会はその証文としてシメておくべき言動はシメておくべきでしょう。




ここまでのまとめをもう一度、といった内容ですね。


ただ、そのとき「法」を採用することは、こと日本におかれては端的に逆効果である、というのが私の見解です。民族問題のトラウマを持たず、オブセッションも持たないことは、能天気の証明であると同時に、差別構造そのものですが。では、どうするか。比喩であれ文字通りの意味であれ、市民が市民として殴っておくしかないでしょう。市民とは決して暴力に反対する存在のことではないので。「休戦」の証としての法規制という発想には、乗れません。マジョリティの傲慢であるとしても。もちろんこれは美辞麗句による綺麗事です。しかし文学ではない文章が、建設的な綺麗事を綴らないなら、ヘイトスピーチだってそれは言論になります。

(強調は私)



分水嶺(こういう使い方でええんかな?)はここですね。


ただ、そのとき(引用者注:身内でシメるとき)「法」を採用することは、こと日本におかれては端的に逆効果である、というのが私の見解です。




相手が自力救済に出る前にシメる。そのために規制すれば?と思ったのですが、最後の最後まで市民による言論(あ、同じパラグラフに文字通り殴ってもとありますね)でというのがsk-44さんの考えのようです。


これは“差別的であることは銀の弾丸ではない”の回のここと繋がっているのかな。

文脈の構築が法的に為されることについて、この上意下達の国では私は賛成することができない。

差別的であることは銀の弾丸ではない - 地を這う難破船




私が「痴漢強姦堕胎エロゲ」のようなものが堂々と売られているという状況そのもの(流通の問題かな)が良くないメッセージに、特に子供に対して、なり得るんじゃないのか?だとしたら規制をするということもまた、メッセージになるのであって、それはスターリン理論に近いけれどいいんじゃないの?とか思っていたときに、いいんじゃないの?と思いつつ、実際規制したとして、果たしてよいメッセージになるんだろうか、ひょっとしたら規制されているだけで、その意味を考えないのではないのかな?と思ったことを思い出します。つまり、その、上からがっとやられたら、なにも考えないまま家畜の群れのようにつき従っていくだけで終わっちまうのでは?と。この国では。

で、そのままなんですけど。すっきりきっちり答え出せていません。

そして、差別構造に基づく暴力は不可視のまま省みられることさえない。差別的な憎悪を垂れ流し合う世界でも私は構わない。ただ、差別的な憎悪を垂れ流すことで人は死にます。だから、差別的な憎悪を垂れ流し合う世界を避けるために、自力救済に迫られる「他者」を生み出さない社会が綱領として要請される。そして法規制は認めない。建設的な綺麗事として、しかし自由と表現と人権の問題として、私はそう考えます。




これがsk-44さんの結論中の結論なんだろうなぁ。


・・・自力救済に迫られる「他者」を生み出さない社会が綱領として要請される。




まではたぶんsk-44さんと大蟻食先生は一致している。最後の最後、“その手段として法規制を認めるか否か”で別れる。


綺麗事、とご自身でおっしゃってるところが、なんというかね。要請されている“自力救済に迫られる「他者」を生み出さない社会”にどうすれば近づけるのか?ということが問題だな。私は規制してもいいと思う。自分でも意外だけど。そろそろ「地下生活者の手遊び」さんとこ読むころかな。