今日も暑かった。しかし上着を脱ぐことができない。勇気がない。

いつも通りに家をでて駅に向かった。細い路地から駅へと真っ直ぐ伸びている目抜き通りにでる。目抜き通りといっても住宅街のなかなので片側一車線で車が無理なくすれ違える程度の広さしかない。その通りの両側には通勤通学の大人や子供がわらわらとあちこちの路地から流れ込んでくる。

朝の乗客は上りも下りもだいたい同じ時間の電車に乗るので、この10分ほどだけ歩行者の数がぐっと増える。にもかかわらずどうやら私が最後尾にいるようだった。後ろを振り返ってみても誰もいない。猫もいない。

時計を見る。乗り遅れるような時間ではないのに。と思いつつ少しペースが上がる。駅のホーム、最前列に立つ。いつもの場所。○の5。ここから乗ると降りた時に改札口に近い。時計を見る。いつもより3分ほど早い。ばかばかしい。

眠いまま電車を待っていた。これはいつも通りだ。しかし何かおかしかった。何かがおかしいのははっきりしているのにそれが何なのか分からない。どこかがずれたような気持ち悪さを感じる。ふと思い出し、すぐ後ろにあるトイレに行き、鏡を見ながら櫛で髪を梳かす。一度梳けばいいだけなのだが、ギリのあたりの寝癖が酷いので結構痛い。洗面台でミ手に軽く水を付け後頭部を抑えてから櫛を入れた。

すこし頭を傾けて、寝癖が取れたかどうか確認しようとしていたところ、隣の洗面台に男性がやってきた。直接には見ず、ちらりと鏡に映る顔を見た。

思わず眉間にしわを寄せて見入ってしまった。顔に大きな文字が書かれていた。漢字で二文字、まるで印刷したかのようにきれいなゴシック体で書かれたそれは鏡を通しても読むことができた。

残念

50代と思しきおっさんの顔にそれは書いてあった。インクジェットで吹きつけたかのようにくっきりとしたエッジ。フォントサイズ500ptはある。つい先日ポスターを印刷したから間違いない。ちょうど500ptほどだった。

その文字はあまりに綺麗に書かれていたためにおっさんに向かって「あの、顔になんか書いてありますよ」などとは言えなかった。いま思えばおっさん自身鏡で自分の顔を見ているのだから当然承知しているはずで、その上でごく普通に前髪をいじり、ネクタイの曲がりを直していたのだから、そもそもそのようなツッコミは必要なかった。ただ、あのとき私はあまりに驚いていたので、気付かなかったとしても仕方がないと思っている。

なにも悪いことをしたわけでもないのに心拍数がぐっと上がった私は、そのおっさんの後ろをちらりとも見ないようにしてすり抜けホームへ出た。後のトイレに意識を残しつつ、あれはなんだ?と思い返しながら、先ほどまで居たホームの○の5へ向かおうとして顔をあげた私の目の前に、今度は明朝体残念が現れた。

それは私の歩く音にこちらを振り返った40歳くらいでスーツを着た女性だった。同じように顔全面に明朝体残念が印刷されていたが顔が小さい分フォントも小さく380ptくらいだろうか。明朝体だがボールドになっているようで、顔のかなりの部分が黒くなっていた。

私は女性の顔をみて驚いた表情を見せてはいけないと思い、ぐっと表情を抑え込んで女性の脇を通りすぎ○の5へ向かった。彼女もまた顔に書かれた文字以外はまったく普通の様子だった。そこで私は気が付いた。向かいのホームを見るとそこには様々な字体で残念と書かれた顔が並んでいた。一人の例外もなく、ランドセルを背負った小学生からボストンバッグを提げた高校生、サラリーマン、白杖をついたジャージ姿のおばさん、大きな襟を広げて漫画を読んでいるチンピラ風の男の顔に至るまで全ての顔に“残念”と書かれていた。

しかし私の顔には、先ほど洗面台の鏡で見た私の顔にはその文字はなかった。私一人だけ、それがないにもかかわらず誰もそれを不思議には思っていなかった。自分は気が狂ったのだと思った。頭蓋骨と脳の位置がずれているような気がしてきた。いたずらにしては手がこみ過ぎているし規模が大きすぎる。ホームに並んでいる人たちは名前も知らない人たちだけど確かに毎日見るご近所さんたちに違いなかった。

電車がホームへ入ってきた。もう考える必要はなかった。通勤電車の中は残念でいっぱいだった。

残念に囲まれた職場で一日を過ごし(月曜だし仕方ないよなと己を納得させつつ)、ようやく残念とプリントされた顔に慣れてきたころ帰路についた。この世界には私が知らなかった様々なフォントがあることを今日一日で知った。噴水の脇で煙草をすっていた爺さんの顔には勘亭流で書かれていたし、そのとなりで不満そうに吸い終わるのを待っていた婆さんには皺の所為もあってはっきりとは読めなかったが草書体らしい“残念”が、観光客らしいバッグパックを背負った白人女性の顔にはかなで“しぇいむ”とあったし、ベビーカーに乗っていた赤ちゃんの顔には“ざんねん”とポップ体で書かれていたが、あの子には難しすぎたのか「ね」の字が鏡像反転していた。

スーパーへ寄って、残念な主婦の間をすり抜け、そもそも字がなくっても残念な感じのレジ係にレシートブロックされた私は、もう疲れきっていたのかそれほどダメージを受けることはなかった。

家に帰り上着とズボンを脱ぎ、ネクタイを外した私は汗ばんだ顔や首を洗った。鏡にはとても顔色の悪いおっさんが映っていた。それはいつも通りだった。だがしかし。その顔一面に漢字が浮かび上がっていたのだった。

私の顔には昭和モダン体のボールドで“無念”と書かれていた。