ふうふう。いっぱい読んだ。繰り返した。あれだね、sk-44さんの文章はすっきりしていて無駄がないので抜き出すとかまとめるとか難しいわ。読みやすいけど。


地を這う難破船 “「特定ポルノ」という発想”の私的まとめ

頭から順に。

人狩りゲームを黒人狩りに特化して個々のプレイヤーが楽しむことと、黒人狩りに特化したゲームは違う。そして後者は現行の社会綱領において許されない。前者は許されうるか。密室でプレイするぶんには許される。そういうことです。「差別意識は顔に出すな」佐藤亜紀が言っているのも煎じ詰めればそういうことですね。社会綱領を、彼女はプロトコルと呼んでいる。立法の議論に敷衍するなら、社会的法益ということです。




ゲームのプレイにも文脈というか読解の多様性があるよ、と言う意味でしょう。ゲームそのものではなくプレイヤーによると。ゲームはほとんどしないけれど意味は分かります。



次に。

未だこの世界は表象読解において普通に「文盲」です。私の認識では。蓮實重彦のように映画を観る人がどのくらいいますか。四方田犬彦のように観たっていい。四方田的な社会反映論と蓮實的な反「社会反映論」は対として両方存在すべきですが、その水準の議論が広く可能かと問うなら、未だ知的な議論であることは違いありません。表象の価値は読解に付随します。読解されない、あるいはブラインドな読解しかされない不幸な表象でこの消費社会は満ちています。つまり、リテラシーの問題です。

(強調は私による)


殆どの表象には読解の多様性が存在するのに(殆ど、というか全ての表象に存在するはずだけど、カテゴリという差別によって読解を一意に限定されている)、肝心の読解者、読者、プレイヤー、消費者のほうに読解の能力がない、ということですね。だとすると、読解の多様性による差別表象の解毒?は未だ成ってないということになるですね。だからそこでリテラシーの涵養が来る。


ここで私が思うのは、世界は文盲なのに、いまからリテラシーの涵養って言っていては、既に手遅れというか常に手遅れになるよね?ということ。それに対する回答は後にあるようなので進みます。


ちょっと話が変わりますけど強調した2つ目の文章は最後おかしくないかな?「いずれ
知的な議論であることは違いありません」と「未だ可能とはなっていません」のハイブリッドのようで。


そもそも現実の人間のセクシュアリティが構造的差別の反映ですが、そのことに対して綱領を主張することはできない。では、現実の人間のセクシュアリティが構造的差別の反映であることは致し方なく内心は自由として、その構造的差別に規定された内心の自由な反映であるところの表象に対して社会綱領を主張すべきか。当然、主張されるべきですが、「切っても切り離せない」以上、他者のセクシュアリティに対する配慮はされてされすぎることはない。

(強調は私による)


この「配慮されてされすぎることはない」という一文を最初読んだ時には意味がわからなかった。少し考えて分かったのだけど、これは「痴漢強姦堕胎」エロゲのプレーヤー側のセクシャリティという意味なんじゃないのかと。えー!と思ってしまった。私としては、「密室でプレイ」するならもちろんご自由にですが、日常目につくところにあるとヤダなと思います(いや、この強姦ゲームについて言えば死ねよと思ってます。作った奴も売ってる奴もやってる奴も。これはいっちばん最初に書いてる)。この嫌悪感は配慮されるべきセクシャリティには入らないのかな?

「暫定解」と書いた通り、ゾーニングは究極的に表現の自由を守らない、ということです。「言論による批判」と読解の多様性への回路を担保しないからです。「棲み分け」の大義名分において特定表象はゲットーへと送られ囲いの中で窮屈に暮らし蔑視と虐待にさらされやがて貨車に押し込められて強制収容所へと送られる。そう、まるで『戦場のピアニスト』のように。ゾーニングは問題の根本的解決ではない。根本的解決の道筋が見えないからゾーニングという暫定解を採っている。そのことと、表象の読解は多様であるべき、という主張は整合すると考えますが。そもそも私は刑法の猥褻概念にも反対ですが、NakanishiBさんはどう考えておられますか。

(強調は私による)



このあたりはそれまでのエントリーを読んでいれば分かることですけど、ゲットーから最終処分へってあたりがちょっとどうかと。別にゲームは抹殺はしないよね。猥褻についての意見もああやっぱりなと思いましたが、キチャナイ(主観ですけど)おっちゃんがすっぽんぽんでそのヘンうろついてたらいやです。リテラシー涵養できそうにありません(これは冗談ですよ、もちろん)。というかこれは本来は猥褻じゃないのかな。猥褻で処理するしかないだけのことか。服を着なさいっていう根拠はどこに求めるべきなのか。着なくていいって言われると困るなぁ。

「ポルノ」という社会的なカテゴリーを表現内在的に構造的差別の反映と指す発想が誤っていると言っている。しかし「ポルノ」という社会的なカテゴリーは必要、ということです。商業的にも。そして、社会的要請としてあるカテゴリーを構造的差別の対象にするべきでない。




これは分かりますね。これまでのsk-44さんの主張通りです。カテゴリー自体が差別構造だと。そもそも芸術とポルノを分ける必要はないと。「社会的要請によるカテゴリー」がどういうものか、現時点では私には分かってません。もう一度読めばわかるかも。

「地下に潜るべき」というのは「裏流通のススメ」と私は理解しましたが、広範な消費を前提する商品の裏流通は端的に困難です。そしてそれは「表現物」です。表現物の流通について困難を勧めることには相応の理由が付されるべきですが、「相応の理由」が付されていたためしなどなく、大概は偏見の羅列でした。

そもそも「特定ポルノ」が「広範な消費を前提する商品」という前提がおかしい、流通の困難な表現物であるべき、と佐藤氏は言っていたわけですが、私としてはそういうのは却下せざるをえません。反道徳を流通の困難によって指し示す――『薔薇の名前』ではないんだから。

(強調は私による)


私が一番最初、大蟻食先生の官憲云々の日記を読んだ時に思ったのが、このようなことを書いておられますが、先生がお好きな反道徳的な、しかしすんばらしい映画(たとえば宮崎駿とか)が標的になった場合、最前線で反対されるんだろうなということでしたね。映画は地下で作るには規模が大きすぎるし。まぁこれで、結局規制をかけるには個別の表象ごとに判断をしていくほかないんだろうと気がついたんですけど。つまり真面目に暫定解を適用するには、ジャンルやカテゴリによる一括処理は不可能で、個々の作品、表象ごとに対応せざるを得ないと。


「反道徳を流通の困難によって指し示す」というのは、前回書いたかもしれませんが、私が最初に思いついた規制の理由です。あのようなものを堂々と流通させているこの世界ってなんなのか?と子どもに聞かれたらどうしようと。ただ「ほら、法律で規制してるでしょ?」と言えば簡単、というわけでは、実はありません。闘っているという姿勢を示す+実効性(何に対する実効性か。それは差別とか道徳では、たぶんない。まだちゃんと整理できていません)。理想で言えば、もちろんリテラシーの涵養、という解を選択しますが。


ふう。私には読むだけでも大変。次の「NakanishiBさんへのレス」はパスします。というかだいたいそれまでのを読めばわかることしかなかったので。


まだほとんど読んでませんが「地下生活者の手遊び」さんのところでは多分、この問題の法律にかかわる部分が書かれているので、興味はあります。法律は理想(ほれ、最高裁とかで立法の理念に沿った判断とかあるし)と現実(実効性がないと困るし)をつなぐものだと思っているので。というかつながざるを得ない。