というような状況で読む『バーチウッド』はものすごくよくない。精神衛生上よくない。避けるべき。


避けるべきと自覚した時点で逃げることができなくなるのが天邪鬼。ということでちびちび読んでいるわけですが。この本の翻訳、修辞担当が大蟻食先生ということだけど、序盤は修辞の嵐じゃないか。違う?


とりあえず今までのところ、ゴドキンの坊ちゃんが子供時代を回顧しているだけ(というか生まれる前のことまで回顧している)なんだけど、なんというか、見ているものがやっぱり子供の視線らしく、あまり脈絡がなく、突然、え?と思うようなものに意識が集中する。


それを語る言葉は大人のそれなんだけど、点から点へぽんっと飛ぶのがどうにも子供っぽい。大きな話の流れというか時間の流れとは無縁な人や物や景色にすうっと焦点が合う。それがまたきれい。綺麗というかなんというか透明な感じ。というか何をどういった状況で見ていてもすべて覗きの感覚。基本、小さな子どもなんて大人の世界からすれば存在しないも同然というとこだろうか。そもそも属する世界が違うというだけの話か。


そうやって、脈絡のない点から点へ飛びまわってるだけのように見えるのに、大人の作っている空気がよく伝わってくる。まぁ、大人になった坊ちゃんが書いているのだからそこここに大人の視点による記述があるんだけども。


覗いているようにしかみることができないちいさな子供の時代というのが、読んでいて息苦しい。なんかもう、いやだ。