いやぁ、ようやく読みましたよ。

ぬかるんでから (文春文庫)

ぬかるんでから (文春文庫)



読んだとはいってもまだ一編だけ。その名も『ぬかるんでから』


これは一体なんなのだろう。不思議なお話といえばそれまでか。寓話というのだろうか。ん。


何の説明もないまま私たち夫婦の住む街は『ディープ・インパクト』のような津波に襲われ、小高い丘に避難してなんとか生き残った人達と、彼らの前に現れた亡者のお話。大水に襲われたあとの日照りで弱者からぽつぽつと死人が出始めたころ、ぬかるみのなかから亡者が現れて取引を持ちかける。取引とは私の妻の体の一部と食料や火といった生存に必要なものを交換するというもの。


死に掛けた集団が私と妻に詰め寄り、亡者と取引をするよう迫る。私は妻を守ろうとするが、妻は求められるがまま自身の歯や指を亡者に与えていく。


最後に、妻が言う。みんなを安住の地へと運ぶ船をくれと。代償は妻の美しい首。


これはあっと驚くような大逆転のある短編じゃあない。O・ヘンリーとかサキの短編しか読んでなかったとき、大逆転のないメリメの短編を読んで衝撃を受けたことがあったけれど、あれともすこし違う。やっぱり御伽噺の雰囲気の所為だろうか。


佐藤哲也というひとはこういうお話が好きなんだろう(大蟻食さんがドンパチ大好きなのとはえらい違いだけど)。上の『ジョー・ブラックをよろしく』に対する評価が高いけど、趣味が似ているという要素も入っているのかもしれない。


最初、避難を始めるときには明らかに主導権は私にあるんだけど、亡者が現れてからは亡者と妻の二人に移ってしまい、私には手も足も口さえ出せない状況になる。簀巻きでぐるぐる巻きにされたような私の眼前で、妻の体が少しずつ削り取られて行き、最後には首まで持っていかれる。妻は抵抗しないどころか、ほかの避難民のために進んで自分の身体を捧げる。この無力感。


始めのころの妻は筒井康隆の作品でよくみるようなバカな女(というか女ってバカだろというあれ)っぽい雰囲気。それが何も飲み食いしないにもかかわらず一人つやつやのまま生き延び、亡者と取引をする唯一の人間になる。最初に奇跡とあるけれど、確かに奇跡のお話。キリスト教とか知らんけど、最後の船はどう見てもノアの方舟だし、そういう宗教的な話のような気もするけど、違う気もする。


なんかさ、身体を物資と交換するのって、筒井康隆の短編にあった。確か、砂漠を渡るのにラクダだったかダチョウだったかと一緒に旅をして、途中、モノとその獣の体の肉を交換するお話。あれは、最後に人間の方が取引で渡した金時計を無理やり奪い返したために目を突かれて死んでしまったはずだ。


『ぬかるんでから』はさっきも書いたけどそういう話じゃない。淡々と失うだけの話。


この、圧倒的な洪水というか大津波とか、その中で身体を失ったり傷ついたりする様子とか、亡者のように迫る避難民を疲れて動けなくなるほど殴り続ける様子、そこまでやっても何も救えない無力感って、どうも自分が良く見る悪夢の要素と重なるんだなぁ。僕の場合は殆ど自分自身が傷ついたり殺されたりするんだけど、この場合は妻。


これって、ひょっとすると、哲也さんが大蟻食さんを失う悪夢の話じゃないんだろうか。つまりそれほど、というかこの作品に書かれているくらい亜紀たんが大事なんだよ〜ってことじゃないかと。ひねくれたラブレターつうか愛の告白だろうな。そっちに目がいってしまうので、宗教臭さを感じないのかもしれない。


で、亜紀たんのこの作品への評価はどんなもんだろう。クストリッツァより先に書いてほしいな。


ということで、『小説現代』の立ち読みしてきました(失礼)。なんつーか東欧の田舎臭いブラス大好きだよってことしか分からんかった。ヘンなのは、女の子を侍らせたおっさんに憧れてるのに、若い男の子を侍らせたおばさんには魅力を感じない子供だったというところか。ガキのころから葉巻臭かったのな、大蟻食。


で、文章の中に“いなたい”という形容詞が出てきて、なんじゃそれは、そんな方言しらんぞわりゃぁ!と思ったあたりで、わからんやつはぐぐれと書いてあった。完全に菩薩さまの手のひらで踊らされた猿の気分だ。なんてことだ。たかが立ち読みで敗北感たっぷりになってしまった。あやまれ!


いなたいを調べたら、どうも音楽関係でいなたい音だなぁみたいな使い方をするらしい。泥臭いとか、どん臭いとか、田舎臭いって感じらしい。東欧だし、ユーゴだし、そりゃ田舎臭いだろうな。ソバ喰いたくなってきた。