というわけで、『ワイルドバンチ』を見たわけですが思い出したのは一部『戦争の法』だったりします。もちろん最後の流れは『ミノタウロス』でしたけど。


語り手の話ですが。「ぼく=ヴァシリ」は、時折現在の思いや考えを挟みながらも、基本的には過去(生まれる前の話)から順に話を進めています。で今回は、本の終盤辺りでヴァシリの回想(語り)している内容が現在に追いつき、その時点からは記述と現実が同時進行して終っているのではないかと思い、もう一度パラパラと読み返したのですが、その交わるポイントは見つけられませんでした。


今のところ、どう見ても最後ヴァシリは死んでいるとしか思えません。で、素直に取るならば、やっぱり走馬灯。走馬灯と書いたけれども微妙で、あの世とこの世の間に挟まって動けない状態での語り、またはお迎えが来るまでの休み時間での語りではないかと。もちろんヴァシリ自身はどうなるのか分かっていません。

今更天国には行けないし、そんなものがあるともぼくは思っていない。 P247



というところが、まさにその挟間に落っこちた今のヴァシリ彼こそが語り手であるのかも知れないと考えました。それは何故かというとですね。最後の最後に

人間を人間の格好にさせておくものが何か、ぼくは時々考えることがあった。 P269



という一文から始まる段落がありますが、ここでヴァシリは、人間でなくなった化け物の定義(流れ出し形を変える云々、ごろつきどもからさえ云々、老人でも子供でも殺し云々、衆人環視の前でも平気でやる等)を述べた上で、自分はサヴァの一件の時点で人間と化け物を分けている一線を越えていると言っている。本当かどうか(神様の視点からとでも言うのか)は分からないけれども、自分では超えていると思っている。そして二本脚で立ってはいるが既に化け物だとも。

しかし、実際は、殆ど自殺行為といえるような銃撃戦を起こすことで、なりふり構わず(つまりクラフチェンコの手下のようなごろつきどもにくっ付いた金魚の糞のようになること)生きながらえてはいません。


恥も外聞もなく泣きじゃくりながら外に出た。 P269



ここのヴァシリは、ごろつきの舎弟に成り下がってもおかしくない状態です。が、彼はそうならなかった。

死ぬことで、結果的に完全な化け物にはならないで済んだということだと考えるならば、挟間の世界にいる語り手ヴァシリこそが―“半獣半人のミノタウロス”―なのかもしれません。最後の襲撃は単なる敵討ちとは異なる雰囲気(上手く言えない)があります。さらに言うと一回死んだところで人に戻れるほど甘いもんだとは考えられないしヴァシリも考えていないでしょう(今更天国発言)。

最後の最後にウルリヒを殺させたクラフチェンコを襲撃する(かつ自分が死ぬ)ことによって完全に化け物にならずに、かといって人に戻れるでなく(つまり超えた一線をもう一度跨ぎ直すことなく)フリーズした状態になったとすればなかなか綺麗に収まる気がします。

うーん。やっぱりヴァシリは完全には死んでいないのかもしれない。いや、それにしては語りが長すぎる。やっぱりあの世とこの世の挟間(ベルセルク読みすぎ)か。ミノタウロスが誰なのかはわかった気がするけど、語り手ってのは結局分からないままです。



ふう。ここからはお・ま・け。

――気の毒に、きっと、ビルなのに明日にもシロアリに食われて倒壊するようなことを言われて縁の下換気扇に五百万とか、



ちょっとまて。この前(といっても随分前)実家に帰ったときに付いてたぞその換気扇(定期的に回ってたな)。昼間は90近いばばあ一人だぞ。しかも自由になる金を一番持っているのがこのばばあだぞ。だ、大丈夫か?俺んち。