というわけで、区切る必用があんのか?という感じですけど。

萌の朱雀』は熱が出そうに退屈だと言ってた人がいたんだが。何にせよ、両作含めてこれだけの作品が次々上映される訳で、当分猛烈に楽しめそうだ。



えーと、『萌の朱雀』は見ました。最初見たときは何がなんだか分からなくて、あらすじみたいなものを読んだ後に見た二回目でもすっきりとは分かりませんでした。なんというか、説明無さすぎ飛ばしすぎ。ストラテジーなどで多少は鍛えられた今であればもう少しマシな見方ができるかもしれませんが。ま、好きですけど。


大蟻食ご夫妻の傾向から見ると、熱が出そうじゃなくて出ます。内容に入る前にまず、ダイアログが聞き取れません。青山くんどころの比ではない。音楽が殆どないあるいはあってもピアノだけの静かなものなので、音量をぐぃーーーっと上げてみても良いかと思いますが、日本語の字幕があるならそっちで見たほうがいいかも知れません。


また、受賞後のインタビューを聞くと分かりますが、メッセージのある映画あるいはメッセージありきの映画なので、何をはどうでもよく、どう見せるかが全て(北野武も映画に愛などいらんといったとか言わないとか)である大蟻食さんには合わないでしょう。なんとなく、西側の映画というよりは第三世界の映画っぽいし。


とはいえ、今回の受賞では映像そのものも高評価を受けたということなので見てみないと分からないですけど。ま、一回くらいいいんじゃないでしょうか。


ちなみに。『萌の朱雀』では奥深い山の風景がとても印象深く、特に家の様子などは昔の婆ちゃん家にそっくりだったので初めて見た気がしませんでした。その家の居間の、開け放った縁側から見える光景は物凄いもんでした。あれは同じ日本とは思えないというか、夢の中でしか見たことが無いものでした。あれは、そう。村の長老に太平洋戦争が始まったことも終ったことも知りませんでしたわい、と言われても信じてしまうくらいの山奥。そりゃ南朝も開けるわい。わい。わい。


ここからちょこっとだけ『ミノタウロス


前回。語り手であるぼくが最後に死んでいるのは一体どう解釈すればいいのかということに付いて、id:kazakiriさんと同じく死ぬ直前の走馬灯説でいいのではないか、あるいはあの世とこの世の挟間(いまさら天国には行けない云々)にいるのではないかと書きました。


で、本日。ぷりさまがそれはちょっと違うのではないかと仰ったので、走馬灯以外の可能性についてちと考えました。


夕暮れのキエフはそれなりに美しかった。イワンと並んで歩きながら、たぶん、ペテルブルクも、パリも、ロンドンも同じように美しいのだろうとごくは思った。 P24



という文章から始まる箇所は、小説現代で読んだときから妙に引っ掛かっていました。この後、世界中にはいろんなぼくがいるのだろうというヴァシリの空想が書かれています。この部分、素直に読むと、そこそこ繊細というか不安定な少年が考えそうなことが書かれているということになりますが、ちょっと待て。『天使』以来とくに顕著になったと思われる、佐藤亜紀のトレードマークといってもいいような“描写を極限まで削り落とす”という書き方というのは、裏を返せば(返してない?)完成原稿として残った部分というのは、かなり濃い存在意義があるということになります(これはこの部分に限らないのですが)。


とすると、この部分は、書かれている内容にしては、分量が多すぎる気がします。そこが初読のときから気になっていた点です。ちゃんとした日本語で書かれた普通の小説ならあの部分はよくある内容としてスルーできるのですが、そこは佐藤亜紀。普通なわけが無い。


ということで、ここの文章の雰囲気(←うまく説明できません)とこれまでの大蟻食さんの発言(これは禁じ手か!)から、これはアゴタ・クリストフっぽいお話なんではないか?という説(http://d.hatena.ne.jp/narren/20070523#1179938062)もあるんじゃないかと言う別の結論に至りました。


ただ、『悪童日記』とは違いどう見ても主人公が死んでしまっているので単純な模倣とは違うのでしょう。これに付いてはまぁ、日頃の大蟻食さんの主張どおり、まんま骨格を持ってきてもしょうがなく、というよりどう料理してみせるかが料理人の腕の見せ所(間テクスト的な参照だっけ?)という点を踏まえれば、アゴタちゃんを土台にしてより難易度の高い技を披露して見せたと考えられますね(無理ですか)。


ということで、読み返したのですが、またまた発見してしまいました。ついでにしては結構な大物じゃなかろうかと(ひょっとしたら大歩危かましてます)。それはここ。

彼は早死にしたのだ。ぼくより随分と早死にしたのだ。 P25-26



このというのはキエフでの家庭教師だったイワンです。この後イワンの死について書かれていないのですが、だとするとこの記述はいったいどういう意味があるんでしょうか(見落としてるかもしれない。イワンの死についての風聞とかありましたっけ?)。おかしい。これはおかしい。もし、この描写がこの場だけ、つまりイワンとぼく=ヴァシリの考え方の違いに色を添えるだけ、あるいは、若者の哀れな死がアジテーションに乗せられたことが原因だったと示すだけのものだとしたら、どうも間抜けに見えます(つまり放りっ放しな感じが)。


なにかあるんじゃないでしょうか。本当に『ミノタウロス』版の『ふたりの証拠』が出るのかもしれません。いや、読み落としてなければです。落としていたらはずかしすぎるけど、まぁ、書き捨て。掻き捨て。


また。『天使』『雲雀』も文庫本になったので空き時間ごとにパラパラ読み返してます。やっぱりあの感覚というアイデア、凄い。超能力がどうこうではなく、文体への効果が凄い。あれをいちいちこれは物理世界の情報です、これは感覚の情報ですなどとやっていたら、それこそ電話帳くらい分厚くなり、中身も随分不恰好になっていたはず。それをほんのちょっとした語尾の変化や、物理的に不可能であるから当然感覚だろうという読者の推測にまかせて説明をばっさり落としてある辺りが読んでいてとても面白い。疲れますけど。