とりあえず上巻終わり。そもそも読むのがとろいしトギレトギレになっているので(申し訳ないいろいろと)お終いのほうだけ。


ちょっと変だと思ったところ(あ、仁木さんがブログに書かれている解説というか設定集はいま読んでなくて、小説が読み終わったあとに読む予定です)。

だから、あんたたちに秘密を明かすのに否やはない。けど、もっとお互いに信頼できるようになってからだ。

p243

(強調は私)



これは馬賊(違うか)の首領ゼキの弟で医師のベルケルの台詞。“けど”ってのは子どものようで似合わないんだよなぁ。赤毛のグワルデイツの子供たちならともかく、医師だし他の場面の言葉遣いからも浮いてる。とまあ重箱の隅つっつきだけど。あとみんな言葉がきれいすぎるんだな。現実の生活にはよくあるからといっても、小説や漫画なんかに言い間違いを自然に取り入れるのは多分難しいんだけど、それとは別に台詞がキレイすぎるというか。あと超長い台詞もすらすら言っているところは、とりあえず読む前にぱっと見ただけで、え?とか思う。ま、漫画でも巨大な吹き出しに台詞がびっしり詰まってるのをたまに見るけどあれと同じかな。p275あたりから始まるレズヴァーンの台詞は、長くてしかも完璧。仕方ないと言えば仕方ないけど。



ここまで読んできて他に気になった点は、ナレーションというのかな?神様というか著者?語り手?の言葉が地の文にも浸透しているところ。これまで読んだ『イストリア』や『グアルディア』にもナレーションのようなところはあったけれど、それはそこだけ別物として区切られていた気がする。今回のも区切られたところはある。ただ登場人物たちの台詞の間にあったかなぁ?と。なんというか気分とか気持ちを説明しているようなところに微妙な違和感があった。


これは別なんだけど。

「お屋敷には以前にも来たことがありますけど、奥の中庭は初めてです」
 フェレシュテは微笑を作った。六日前に辞したハーテマの代わりに入った侍女は、ミカイリーだが別の村の出身である。

p261




“別の村の出身である”という説明を語り手が地の文でやっている。ここ数年何か読むといえばいつも大蟻食先生のものばかりだったから、そっちが基準になっているので気になったんだけど、大蟻食先生はこういうのを一切やらないのね。下手すると台詞ででさえ説明してくれないもの。


スタイルとして作品全編にわたってこういうところを削って書くのって、至難の業だよなぁ、と思いました。もちろん仁木さんがダメとか言ってるわけじゃないですよ!久しぶりに普通の小説読んで改めて大蟻食作品はアレだなと。


細かな説明まで書かれているというのはきれいにレールが敷かれているようなものでそれはそれで楽しい。ぎゅんぎゅん曲がりくねったり、すんげースピードで走ったり、著者の思うところのまま乗っかって楽しめる。大蟻食先生のように飛び石程度にしか足場がないようなのは読むほうに体力が必要とされるし、下手するとわけわからんところへ行ってしまってなにが面白いのかわからなかったりする。読み手の自由度が超高いけど楽しむ(快楽享受の)ためのハードルも超高い。


今日から下巻ちびちび読んでます。