あんま進んでないけど、ちびちびと『フリッカー、あるいは映画の魔』を読んでいる。これは面白い。みんな面白いっていうはずだ。


ところでこいつの6章「墓荒らしの顛末」がすごい。ここでマックス・キャッスルのお蔵入りしていたフィルム『ユーダス・イェーダーマン』を見るんだけども、そいつの描写がとっても面白い。というかこいつぁまるで大蟻食のようだ。

論じるほどに、ぼくたちはこの映画が最初に推測したようなラフ・カットの集積とは思えなくなった。目にしたショットのすべてがそこにちゃんとおさまっている。あらゆる細部が、たとえ初見ではアウトテイクとしか思えなかったショットさえ、欠くべからざる全体の一部として奉仕していた

フリッカー、あるいは映画の魔』 p105

(強調は私)



これは『ストラテジー』で芸術全般について書かれていた内容とぴったり一致している(私の記憶が正しければ)。

キャッスルが作中に登場する階段シーンをつねに眩暈を覚えるような不安定なアングルで俯瞰して、下りてゆく人物をかならず背後から手持ちキャメラで追いすがることに注意をうながしたのは彼だった。深淵のようにぱっくり口を開いた陰影にあやうく旋回しながら落下してゆくこの視覚的モチーフが、全編を緊密に結びつけていた。それは恥辱とパニックと地獄堕ちをしめす完璧なイメージだった。

p106




ここも、『ストラテジー』でシャマランの『サイン』について書かれた地下室に差し込む光の話とよく似ている。ひょっとしたら映画評というものはだいたいこんなものかもしれない、という可能性はあるけど。けど。似てると思ったの。たの。


哲也先生は読んでおられる。おられるからといって大蟻食先生も読んでおられるとは限らないけど、かなりのお勧めっぽかったので、やっぱり読んでおられる可能性は高い。読まれたとすれば、先生は、ぴしっとひざを打ちつつ、「そうそう、そうなんだよ、セオドア・ローザックやるじゃん!」くらいのことを思われたはずだ。どうでしょう、読まれた皆様。私はここ読んで、ストラテジーのあの雰囲気がぴこーんとよみがえりました。


話は変わるけど、これは映画の話なんだけど、小説なので文章でしか表現されていない。どうもこのマックス・キャッスルという監督のフィルムがものすごーーーーーーい映画だということらしいんだけど、挿絵なんかない。ひたすら描写、描写、描写。あしたのジョーくらい描写、描写、描写。


これは小説の強みなんだろうと思いいたりました。それは映画でなくとも絵画でも陶器でも歌姫の歌声でもいいんですけど、文字による描写である以上、読者に実物を示すことはできないんですけど、示さなくてもいいってことでもあるわけで、これが映画だったらなんらかの物を見せないといけない。設定上「だれも見たことのないような奇跡のような芸術作品」となっていても映画だと、美術のおじさんたちがえっちらおっちら作り上げた実物を見せた時点で萎えるわけです。でも小説だとそういうことがない。もちろん修辞にだって限界はあるだろうけど、映画に比べるとずーっと自由。もちろん素晴らしく美しいものだけじゃなく、素晴らしく醜いものだって同様。うまくやれば読者の想像力の限界まで、美しさや醜さを引き延ばせる。ひょっとしたら限界をこえたところまで持って行けるかもしれない。


セオドア・ローザックはこんな小説を書くくらいなのでたぶん映画のマニア(それも変態的なまでの)なんだろうけど、小説を書くに当たっては小説の強みを生かしきってる感じがして、やりおるな!と思った。思ったし、たいへんおもしろいんだけど、やっぱりちびちびとしか読めない。湿度が悪いのだ、湿度が。もう亜熱帯というか熱帯だろ?俺、もう明日から氷背負っちゃうゼ?