第五回講義 その五

いやぁ、週末とか書いてしまったけどかなりきつい。洗濯ばっかしてた。だが無駄ではなかった。一挙にやったお陰でアイロンのかけ方が上手くなった。3枚に1枚は失敗していたのが失敗しなくなった。おかしなことにアイロンって一回失敗するとスチームとか霧吹き使っても挽回できないんだよなぁ。なので失敗しないってのはかなり助かる。


っと。逃げてちゃダメ!とりあえず〆る。

類型と個別性 板付きの人生とロマン主義的人生

結論としては↑のようなことについて、「顔」を軸にお話されたということでいいんでしょうかどうでしょうか。


「顔」の歴史的な変遷や違いなどを肖像画や映画(ノンフィクションとフィクション)で見られる「顔」を使って説明されました。

ジャンル類/アンシャン・レジーム個別性/ロマン主義
映画 『意志の勝利』
『そして船は行く』(※1)
宇宙戦争
『ウエスタン』
『ベニスに死す』
シンドラーのリスト』(※2)
肖像画 ブロンチーノ
デューラー
ヴァン・ダイク
ゲインズボロー
アングル『ベルタン氏の肖像』
ひと メッテルニヒ
タレーラン
ギゾー
ネイ
戯曲 ← (ボーマルシェフィガロ三部作) →
(※1:難民と一緒に去っていく女の子だけは個別性を与えられていた)

(※2:第五回では出てこなかったけれど、ここに入れてもいいと思う)



アンシャン・レジームに対する言葉がほんとにロマン主義でいいのかどうか知らないけれど、大蟻食先生の使われた言葉から選びました。はは、世界史とってないんでね。


時間軸で並べると


デューラー → ブロンチーノ → ヴァン・ダイク → ゲインズボロー → ボーマルシェフィガロ3部作(1775 1784 1792) → アングル『ベルタン氏』(1832) → 『意志の勝利』(1934) → 『ウエスタン』(1968) → 『ベニスに死す』(1971) → 『そして船は行く』(1983) → 『シンドラーのリスト』(1993) → 『宇宙戦争』(2005)



ざっと見ると、人間の役割は生まれ付ききまっていて、変化しようがなかった時代がずっと続いていたところに、革命が起こり、その人間に起こった様々な出来事によって、役割や人間そのものが変化していくという認識に変わったと。「顔」という視点でみると、その変化が絵画、特に肖像画によく現れていると。


人間の固有の内面・固有の歴史=個別性は革命を境に獲得されたものらしい。昔の人々、王様から水呑百姓、年寄りから子供まで、全ての人達が“内面なんかねーよ!人生は板付き(アタリとハズレはある)!”と思っていたのだとすると。歴史を(というか常識?)を知らない僕がずーっと持っていた革命のイメージ=“酷い扱いを受け続けてきた下々のひとたちが“もー我慢ならん!勘弁できん!堪忍袋の緒がキレまくったぜ!”ということでどかんと爆発してしまった”というのは間違っていたということになる。


単に怒りが爆発したんじゃなくて、考え方というか、自分自身のあり方が根本的に、ガラッと、それこそコペルニクス転回、パラダイムの転換、ということは世界の見え方が信じられないくらいに変わってしまうということで、これがそれこそ国中で起こったということであれば、その興奮というものは想像が付かないくらいではなかったのかと小一時間夢想して興奮のおすそ分けを勝手に頂いたりしたんですが、これも間違ってますかね。


ということで、フランス革命って凄いよというのが結論でした。いや、違う。


面白いのは『意志の勝利』や『そして船は行く』や『宇宙戦争』といった、一度獲得した個別性を登場人物に与えなかった映画の意味を考えるところにあるわけですね(『意志の勝利』は与えないというかノンフィクションだし、党員たちが捨てていたということで)。


先生の〆としては、やはり歴史的な流れの中で獲得した個別性=固有の内面・固有の歴史というものを持つことができる今に生きることはとても幸せなことである。が、しかし。この状態は案外脆く儚いかもしれず、え?っと思っているうちに消えてしまうかも知れない。『宇宙戦争』で見せられたように、そのありがたい個別性をかなぐり捨てて同じ方向を向いて走って逃げなければならないことも起こり得るんだよ、注意しとけよ。というものでした。ま、ちゃんと〆られないけど無理にやると格好悪いしねふふふっということでしたので、聞いてたこっちだって〆てやらんからな!


少し細かく見ると、『ウエスタン』のようにフィクションであるが故に過剰なまでの個別性を、台詞ではなく「顔」に与えることができるという点も面白そうです(大蟻食先生曰く“いかなる類にも還元できない濃い個性・個別性をフィクショナルに作り出している”)。台詞じゃないということで、これは小説では殆ど不可能だといっていいのではないかと思います。小説に「顔」はいらないということでしたけど、逆に言えば、「顔」について、「類型」「個別性」の書き分けなんぞいちいちやってられないはず。


質問であった大蟻食小説の映画化ですが、『天使』なんてとてもじゃないけど無理だろうと。やるとすると『攻殻機動隊』のようにちょっと変質させた声を流したりするんだろうか。画像を渡すシーンは無理じゃないかなぁ。もっと細かい点も考えるとかなり難しい。それこそ『パフューム』(未見です、はい)でやろうとして失敗したらしいことを嗅覚以外のいろんな「感覚」についてやらねばならないのであって、やはり映画化は不可能と言わざるを得ません(言わざるを得ないってww俺ww)。まぁ、不可能と思われることをやってのける輩はいつの時代にも居るわけですし分かりませんが。それに“今の映画”でなくて、それこそ電脳でも普及した日にはまんま感覚のようなやりかたで“上映”出来たりするかもしれないし(それって意味あるんだろうか)。


ということで、表現方法、メディアの違いによってもいろいろ面白い妄想を走らせることができそうです。で?っていう。


おまけ:タレーランが一世一代の舞台ウイーン会議に連れて行った画家イザベーはこの人でしょう。 → Jean-Baptiste Isabey - Wikipedia


おまけ2:アングルって面白い → アングルの抵抗


なんだかぼけーとした〆ですが、僕にはこれ以上できんとです。許してつかぁさい。テープ起し頑張れ!