ユリイカ10月号 小説のストラテジー

やったかどうかすら忘れた。ま復讐ということで。

メインは物語。かな?

「昔あるところにひとりの男がありました。この男は生まれて生きて死にました」

 これは物語であり、目的論的な世界である。



仮説:我々が反応しているのは記述の運動であって、プロットでも物語でもないのかもしれない.

定義:虚構として設定された広がりにおいて記述の運動が展開されるのがフィクション.

フィクションには(浄化:カタルシスより)もっと複雑な運動の型が幾らでもあり、むしろその方が、まったく通俗的な意味で〈文学的〉だとさえ考えられていることはご存知でしょう。

(p209 下段9行目)

括弧はわしが書いた。

ま、ここは反語的な感じで。で、ずーっと一貫しているのはプロットや物語よりも運動(記述の運動)のほうが大事じゃねーの?という点でしょうか。随分と間が空いた所為(僕がバカだからではありませんよケッシテ)で物語とプロットと運動の型がはっきり区別できない状態なのですけど。ま、書き手の腕の見せ所はプロットよりも運動だっ!ということだろうと思います。でもなあ、ミステリとかは独自のプロットが腕の見せ所だと思うんだが。


で、物語は必要か否かということで結論は物語はあってもなくてもいいと書かれておりました。いやyesでありnoでもあるといった書き方だったかな。ま、ここでも最優先なのは記述(の運動)であって、物語のない記述は存在しうるが記述のない物語はありえないということだと思われます。

記述は…中略…社会通念や神話的・歴史的なイメージの喚起等を含んで作品外の過去や現在に根を張り、…(以下略)

(p211 上段1行目)

略したのはわし。

で、その一例としてオスカー・ワイルドの『つまらない女』のアメリカ女の話を挙げておられまする。ま、当時の欧州(つーかイギリスの上流?中流?)から見たアメリカなんて説明がないとわたくしなぞにはまったくわからないんですけど。ま、ここでいう通念は読者が共有している情報というか暗黙の了解というか常識のことだろうと思いまする。ん?これはなんの説明だっけ。物語を使用する理由だっけ。忘れた。

ま、現実を正確に描き出すためではなくって、ドタバタおもろい記述の運動を披露するためのフィールドを作り出すための道具の一つとして物語を使うこともあると。フィクションの虚構として設定された広がりのために、現実世界の通念をそのまま虚構世界の通念として流用してるんだろうと。楽チンだもんな流用は。理解されやすいだろうし。


現実の世界とはまったく異なる虚構世界独自の常識・通念を作り上げてひとつひとつ説明していくこともできるんだろうけど、うまくやらないと全体が野暮ったくなるんだろうな。やっすーいドラマの説明台詞のような感じになるもん絶対。本題(腕の見せ所)は記述の運動なんだし、虚構世界の地ならしに字数いっぱい使っても読者はおもんないからな。


後半はもういっちょワイルド、そんでドストエフスキー(メロドラマーメロドラマーゆうたはりますわ)が登場するけど疲れたのでまた今度。


今更だけども、大蟻食って凄い名前な。食べてるものが名前だもんな。ナマケモノも凄いけど。他に食い物で名前付けるとしたらコアラな。ユーカリ食い。あとは、うーんパンダか。笹食い。あきまへんな。やっぱり蟻食には敵いません。獏の夢食いはイケルかも。