密やかな結晶@東京芸術劇場 (ネタバレあります)

初めて見ました。舞台の石原さとみさん。

海に囲まれた静かな小島。この島では“消滅”が起こる。香水や鳥、帽子など、様々なものが、“消滅”していった。 “消滅”が起こると、島民は身の周りからその痕跡を消去し始める。 同時にそれにまつわる記憶も減退していく。

(帽子は”消滅”していない。秘密警察が被っている。)


開演と同時に「鳥」が”消滅”する。「鳥」に関する書物やひとに飼われている「鳥」そのものが処分される。これらを隠し持ったものは秘密警察によって逮捕される。ただし空を飛んでいる鳥はそのまま飛び続ける。ただ人によって徐々に認識されなくなっていくらしい。


「香水」は過去に”消滅”したものだったが「わたし」によって隠されていたため現物が手元にある。ただ「こうすい」の発音もほとんど忘れかけているためイントネーションがおかしい。さらに「香水」の匂いも感じなくなっている。”消滅”してから時間が経っているためその匂いまで認識できなくなっているということだろう。


「わたし」の亡き父は「鳥」の研究者だったため家にはたくさんの「鳥」関連のものがありそれも処分しなければならずいくつかは長持に隠したがそのほとんどは秘密警察が持ち去っていく。


この”消滅”とそれにまつわる記憶などの”喪失”がこの話の基本かつ重要な設定になっている。これがあるからこそ様々な人間のさまざまな感情が動き、行動し始めることでドラマが生まれる。にも拘らずこの”消滅”の設定が詰め切れていないように思えた。


例えば、秘密警察のボス(山内圭哉)は”消滅”という事象に恐れを抱く部下たちに答えて言う。「自分はフェリーの整備をしていたがフェリーが”消滅”した。油まみれになってしていた整備という仕事も失ったがいまこうしてなんとかやっている」


フェリーの”消滅が”何時のことだか分からないがボスには油まみれになっていた記憶が残っている。「フェリー」という単語も覚えているしその発音も問題ない(ボス自身もまたR氏と同様、”消滅”の影響がなく記憶を保持できる「レコーダー」である可能性はある)。


もう一つ。オルゴールも失われて久しいがそのものを見せられ音を聞かされるとレコーダーではない「わたし」や「おじいさん」にも認識できる。「香水」の匂いも分からなくなっているのにオルゴールの音楽は認識できるのはおかしい。


ラムネにしてもそうだ。遠い昔に消えたラムネをみた老婆はラムネの記憶が消えているはずなのに”消滅”したはずのものだと騒ぐ(これはあきらかな人工物であるにもかかわらず名前を知らないためそう推測したという可能性は残るけど)。


そもそも匂い、音、味、そういったものの記憶はかなり強固なものだと思うが、その強固なものでさえ消え去ったのに、ものによってはすっと認識される。つい今しがた消えた左足を人に触られても何も感じないにも拘らずオルゴールやラムネは説明され再び名前を与えられるとそれらに対する認識が復活しているのはなぜなのか。


さらに。”消滅”してきたものを見ると脈絡がない。終盤には人間の左足までもが”消滅”する。それは秘密警察のボスや隊員も例外ではない。業務に支障をきたす。そして最後には人間そのものが”消滅”する。


となると、この島・この世界ではなにを”消滅”させるかを独裁者が決めているのではなく、人間の意志とは無関係に、ランダムに”消滅”しているということになる。なぜならランダムな”消滅”は独裁者や独裁政権にとってなんのメリットもないから。まるで天災のように、あるいは死に至る不治の伝染病(免疫のあるものがレコーダーと呼ばれる)のように次々といろんなものが消えていく。どうしても誰が?と問うならそれは「神」ということになるはずだ。


では独裁者のいない世界で秘密警察はなにをしているのだろうか。


強引にでも答えをだせばこういうことになるだろう。それは”消滅”によって生じる混乱ー”消滅”したにもかかわらずその「もの」がそこらじゅうにあれば、記憶の消失には時間差があるため混乱は起きるだろうーを避けるために”消滅”と同時に関係するものを速やかに処分しなければならない。社会の安定のために。しかし劇中、そこまでの説明はない。


ある日「本」が”消滅”した。人々が本を手に集まりつぎつぎに焼却炉へ放り込んでいく。普通に考えれば秘密警察が指導して”消滅”した本を処分させているはずなのだが、そこに秘密警察やその他官吏の姿はない。姿がないどころかそこに踏み込んできて人々は逃げまどい四散する。


これでは本を抱えたまま焼却炉に身を投げた青年の存在に意味がなくなるではないか。強要されているからこその自殺ではないのか。


「秘密」警察であるならばあの青年の自死をみて笑わねばならない。「馬鹿なやつだ」と笑わなくてはならない。それをしないのであれば

ナチスからユダヤ人を匿うような緊張の日々」

などという事態にはならないはずだ。この程度の作り話でナチスを持ち出すのは峻烈な過去の現実に対する冒涜だろう。

そう、これは作り話なのだ。劇中世界はとても軽いのりの作り話のディストピアでしかなかった。それを本物のディストピア化が進行中のニッポンで、ニッポンのトウキョウでみることの意味ってなんなんだろうか。

以下、思ったことをつらつら。


主演の「わたし」を演じた石原さとみは素晴らしかった。どこかで見たような表情もたくさんあったけれど、それでも素晴らしい仕事をしていたと思う。ぼーっとしたお嬢さんで笑うととても可愛らしい、そんな「わたし」を上手く演じていたし、最後のシーンではとても美しく見えた。


年をとらない「おじいさん」を演じた村上虹郎も悪くなかった。彼の声はあまり舞台向きではないように思えた(その点石原さとみ鈴木浩介山内圭哉は聞き取りやすかった。ベンガルはまったくダメ)が歌を歌い始めると印象が全く違った。妙に惹きつけられた(お母さんが、とは言いません)。歌詞やたった一人で舞台を走りまわり踊っている様子をみるとジーン・ケリーの『雨に唄えば』を思い出さずにはいられなかったけれど、彼の魅力的な歌声をもってしてもあの場面をもたせるだけの振付ではなかったのがとても残念だった。


このシーンは「おじいさん」が隠し部屋で「R氏」が「わたし」にまっさきに”消滅”という「愛すること」を教えているのを漏れ聞いた直後なんだけれど、意図がつかみづらい。私にはある種の嫉妬とその反動を表現しているように見えた。しかしそれを成立させるだけの前提が弱いのでこのシーンの持つべき意味がくみ取れない。その前提とは「わたし」と「おじいさん」の間のとても長くて強い絆、二人だけのこった家族としての絆だ。これが十分に表現されていない。「おじいさん」の最期に彼がひとりで全てセリフとして長々と話すだけだ。これでは内容も足りないうえ順序もだめだ。


これは「R氏」と「わたし」の関係についても同じことが言える。この二人の間にも小説家と担当編集者としての長くて強い結びつきがあったはずだし、それがあるからこそその後の恋愛感情への変化(深化・強化?)に自然と繋がるはずだった。にもかかわらずこちらの描写も不十分だった。


それを思うと、ほとんど意味のない、というか全く意味がないと言っていい秘密警察によるミュージカルシーンやこれまた意味のない劇中に散りばめられた「笑い」の存在が腹立たしくて仕方ない。あんなものはザクっと削除して劇の前半で「わたし」と「おじいさん」、「わたし」と担当編集者としての「R氏」の関係を時間をかけて見せておくべきだった。何気ない日常を丁寧に見せておくべきだった。


大体ボス以下秘密警察隊員のほとんどが関西弁、大阪弁である意味がない。大阪弁でしょうもない”新喜劇的お笑い”をあちこちに挟んで一体なんの意味があるというのか。いや、「笑い」を入れるのはいい。しかしそれも構成上意味のある位置に意図をもって(例えば前半に笑いを入れておいてそこからストンの落とせば、そのコントラストによってディストピア感が際立つ)挿入しなければただの「逃げ」だろう。


最初から終盤までちょこちょこチョコチョコと「大阪弁と言えばお笑いでしょ」的な「笑い」を散りばめた結果、恐ろしいはずの秘密警察はおつむの弱いバカの集団になってしまい、彼ら自身も感じているはずの恐怖や罪悪感や哀しさといったもの(いや、そういうものは示されていたが、取って付けた感が強くて素直に受け取れなくなってしまった)が感じられなくなってしまった。


2幕の客席降り、というか客席からの老婆たちの登場も意味がない。そもそも老婆たちをなぜ登場させたのかもよくわからないが、あれを冷徹な秘密警察の隊列にでもしておけば劇中世界のディストピア感を観客により強く印象付けることができたかもしれないのに、なぜ老婆のミュージカルシーンにしたのだろう。私はこちらも「逃げ」だと感じた。


とりあえずところどころで笑わせておけばいい。とりあえず観客の間を役者に歩かせておけば記憶に残るし喜ぶだろう。そんな風にしか思えなかった。はっきり言えば客を舐めていたのだ。「笑い」も前述したように効果的に挿入することはできたはずだ。しかし実際は観客を劇中世界から現実の世界へと引き戻すような笑いーたとえば武田鉄矢ーのようなものばかりだった。山内圭哉は好きな役者だけどああいう使い方をするべきじゃなかった。どうしてもやりたいなら劇がはじまってすぐ、観客が入り込む・のめり込む前にやるべきだった。


確かにそれで笑ったひとは大勢いた。たしかに私は新喜劇(吉本)が子供のころからきらいだった。でもその手の「笑い」を全編にわたって散りばめたのは、観客の”満足度”をあげるためには舞台の完成度をあげるよりらくちんだからだろう。


最後も洟をすする音がそこかしこから聞こえてきた。でもあれは「笑い」の効果ではない。たんに「愛し合っているのに別れなければならない」事に対する生理的な反応で、幼い子供や動物たちがひどい目にあったりするのを見せておけば同様な反応がでる、そういった程度のものだ。もちろん石原さとみの演技によるところが一番だけれど(あそこの彼女は素晴らしい。全編にわたって集中していたけれど、きちんと最後にピークをもってきた)。

彼女はとても頑張っていた。やると決めたらいつだって頑張るひとなのは彼女を見ている人たちはみんな感じている・知っていることだろうと思う。


脚本を書き演出をした鄭義信監督は彼女のこの頑張りにこたえられるだけの準備をしたのだろうか。ほんとうにあの脚本・演出でいいと、それらがあの石原さとみの頑張り、情熱に見合うだけの代物だと思っているのだろうか。


私は小川洋子さんの作品とは相性が良くないけれど、彼女だってもっとちゃんと考えて書いたはずだと思う。


逃げずに真正面から作ってほしかったな、と思う。


(敬称略)


p.s.


9000円だも。これくらい書いたっていいよね?




だいたい「わたし」は小説家であっていろんなものがどんどん”消滅”していくということはどんどん使える言葉や概念が消えていくということであり、それはつまり筒井康隆の『口紅に残像を』に似たような状況になっているはずだし、そのうち記憶も消えるとはいえその時その時にはとても不自由を感じているはずだし、だったらもっと”消滅”に対して強い思いがあってしかるべきだと思うの。しかもお母さんはその”消滅”に絡んで殺されているのだし。

やっぱり詰めきる前に出しちゃったのかなと思うよ。


あ、そうそう。R氏を演じた鈴木浩介さんも頑張ってました。セリフも良く聞き取れるし舞台でもまったく問題ありませんでした。ただR氏ってバカ正直でクソ真面目で朴念仁な役どころだと思うんだ。だからこそ強い感情を吹き出した時に揺さぶられる、はずだった。


なんていうか演技力の問題というよりふつーにしていて詐欺師っぽいんだよね鈴木さん(ライアーゲームの影響じゃないと思う。たぶん天然もの)。詐欺師っぽさが滲んじゃってるからR氏になりきれないんだよ。山内さんと役どころを交換したほうがまだしっくりくると思います。ごめんね、鈴木さん。


しっかし石原さとみさん『校閲ガール』以降すごくいい調子で仕事していて、いま過去最高の状態なんじゃないのかなと思う。だからこそ勿体ないなとも。『アンナチュラル』やりながらのこの『密やかな結晶』でしょ。凄いよ。体壊さないようにお気を付けください。

そういえばロビーにプレゼントって書いた箱があったけど役者さんへのプレゼント入れるとこだったのかな。それならTOBUの御座候をもってけばよかったかな。姫路の会社だし。それともピース・オブ・ピースのアップルパイか。アヤシイし棄てられちゃうか。


そうそう。“消滅”とそれに伴う記憶の消失という設定は黒沢清監督の『散歩する侵略者』とよく似ている。そしてあちらのほうは「笑い」もあるけれどそれなりに意味のある「笑い」だし、完成度は上。そういえば村上虹郎さんは松田龍平さんと雰囲気にているかもしれない。