インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌 【Inside Llewyn Davis:2013】

見てきましたよ、と。

えーっとえーっと二日続けて不条理劇ですかそうですか。

映画はフォークソング歌っている冴えない歌手ルーウィン・デイヴィスが知り合いのうちを転々としたり猫を追いかけたり仕事を探してうろうろするのを追いかけたもので、タイトルの『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』は彼が新しく出したアルバムのタイトル。

見終わってですね、困りましたよ。これどうするんだと。考えてみるとですね、ルーウィンて男はほんとダメな男なんですね。でもダメ男を主役にした映画なんていくらでもあるわけですよ。では何が違うのかと。

ルーウィンのダメさは全くといって良いほど笑いには繋がらない、ふつーのダメ(いや、かなりダメなんだけど)。わざわざ映画にするようなダメっぷりではないわけです。

じゃあなにがあるのかと。これが驚くべきことに何も無いわけなんですね。何も無いっていうのは「映画にするような何か」が無いっていうことです。普通の映画で出てくるような「映画的な出来事や人物」といったものが無い。正確にいうと無いわけではない。いわゆる“映画”な要素はちらほら配置されているんだけどもルーウィンは全て、それら全ての要素の脇をするっと通り過ぎていくだけなんですね、これが。徹底的に。

映画、と考えると最後にチラッと出てきた某・ディランのほうこそ映画になりそうなキャラクターなんだけど彼は画面の端、ルーウィンの意識の端っこにしかいない。

要するに、これはふつうなら脇にちらっと映っているだけだったはずのふつうの(ダメ)人間を主役にしていると。ほんとにこれといったものは何も起きない。

おちょくられているような感じ。それが心地良いかっていうと別に、と。

ねこちさん、猫に配点甘すぎるゼ!