風立ちぬ 【Kaze Tachinu:2013】

ようやく見た。


私にとって宮崎駿の映画では長らく『天空の城ラピュタ』が一番だったけれど『風立ちぬ』が超えたかもしれない。まだ確定できないけど、そんな気がしている(たんに冒頭から一貫して不穏で禍々しい雰囲気だからってことで「好き」と言い辛くなってるような気もする。『ラピュタ』はハッピーだし…)。


予告でも使われていた少年・堀越二郎が実家の屋根から自作の飛行機に乗って飛び立つシーン。川面に沿って遡るカメラ。あの辺りでグッと来つつもこらえたけれど、そのすぐ後の関東大震災のシーンで超えてしまった。悲しいというわけではなくてなんだかすごくて。


地殻がひび割れ赤いマグマのようなものが一瞬見えたかと思うと大地が波打ってその上にある家屋や線路までもが一緒に上下する。衝撃波が広がる。あんなものは見たことがない。どうみても描写としてはやりすぎなんだけれども感覚的にはものすごくわかる、体感的に、説得力のある、おなかのそこまで揺さぶられる表現だった。それとは別にあれを今(東北の震災後の今)作って見せるのかという点でも驚いた。


震災後2年で復興した帝都の様子はどこかガイ・リッチーの『シャーロック・ホームズ』で見たロンドンに似ていた。共通点といえば活気に溢れているところとか水運の様子だろうか。時代としては1890年と1923年(関東大震災)なので32年の差がある。まあ映画の中でも航空機の技術では20年は遅れてるって言っていたから的外れではないのかも。


表現というとこれまでのジブリでは見たことのないものがひとつあった。それは水面。たしか海だったと思うけれどちょっとCGっぽくも見えた。川についてはそんなことはなかった。なんだろう。印象派の絵のようでもあった。禍々しいオレンジや赤や黒や茶のまじった積乱雲も印象派といえば言えなくもないような。菜穂子がパラソルさして絵を描いていたところはもちろんモネの『散歩、日傘をさす女性』だ。


モブの描写も良かった。川周りの描写も良かった。雲も緑も風も。細かい植物も丁寧に描かれていた。でもやっぱり一番は飛行機。


翼の切っ先や折れ曲がっているところから流れ出る飛行機雲の細く白い線。傾きが変わるにつれて翼の縁を移動する反射光。エンジン周りの吸気・排気。それに加えて飛行機視点のカメラが動いたときの、後方へ流れていく大地の様子。どれをとってもすばらしい。


また飛行機以上に登場回数の多かったような気がする蒸気機関車。飛行機だけでなく機関車も好きなんだな、駿。


菜穂子との関係はなんというか人間離れした堀越二郎を常人離れした堀越二郎にするため、というか人間世界につなぎ止めておくために必要だっただけのような気がしていた。結婚するところなどではところどころ鼻水をすする音が聞こえてきたけれど私にはあまり感情的な起伏は起こらなかった。菜穂子だけでなく親友や上司、妹なども同じようなものかもしれない。彼らの存在がなければ。ほうっておくというか隙あらば妄想・白昼夢の世界に飛んでいってしまう二郎(子供のころから)は変人の域を超えていて、人間と呼べるかどうか怪しいくらいの存在になってしまう。


ということで某所でも書いたけれど、「人間ではない存在」や、「人間界とはちがう別世界」と宮崎駿作品における異様な“涙描写”の関係についてなんか気になるけれど、まじめに考えるとしんどそうなのでとりあえず延期する。


この映画はとても美しいけれど最初から最後まで不穏で禍々しい。見終わって最初に思い浮かんだ感情は哀しみだった。結核とかは関係ない。ほとんど関係ない。


自然、農村、蒸気機関車、人や舟の行きかう川、言葉遣い(幼い子供までが美しい言葉を使っている!)、そういったもろもろ、画面に映し出されるすべてが美しかった。しかしこの映画を見ている今この時代、そのすべてが失われている(少なくとも私にはそう見える)。


サナトリウムの描写は興味深かったけれど、見ながら思い浮かべていたのはハンセン氏病患者を隔離していた施設のことだった。強制的に隔離され、断種手術までされていた(そしてそれは薬が開発されたあともずっと続いていた)施設のことだった。そこからさらに精神科病棟なども連想した。


関東大震災のところでも自警団による朝鮮人虐殺、軍による大杉栄の虐殺などを思い浮かべていた。


ようするに美しいものはほとんどすべて失われた一方、愚かな人間だけが残ってしまった。私はそれを強烈に感じさせられた。さらには宮崎駿という人はどんな思いでこれを描いていたのだろうかと想像するとどうにも堪らない気持ちになった。


哀しくてやり切れない。映画が美しければ美しいほど哀しさも深くなる。たぶん、やっぱり、だからこの映画が一番好き、と言えないんだろうと思う。