重力ピエロ 【Jûryoku piero:2009】

このまえ本を読んだので映画も見てみた。


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いやぁ、岡田将生ってこんなに綺麗な顔してたのか!ってのに吃驚した。NHK大河ドラマ平清盛』とかちょっと前に見た『悪人』とかではそれほどではなかったけど、この映画ではすごい美男だった(『天然コケッコー』では出ていたことさえ思い出せない)。生きた少女マンガキャラだわ。すごい。


まあ男のことなんざどうでもいい。


ここから先、いろいろとネタばれや妄想垂れ流しがあるのでご注意を


映画ではほとんど冒頭といっていいくらいのところで兄・泉水(加瀬亮)が大学の研究室で弟・春(岡田将生)からの電話を受けていて、それを同僚が見ている。小説では泉水は遺伝子検査会社に勤めていて、同じように職場において同僚の前で電話を取る。


これ、ほとんど同じなんだけども文字(小説)と映像(映画)ではまったく違う。小説だと泉水自身が信用できない語り手だから多少ごまかすことが出来るけれど映画だと無理(やり方はあるだろうけど結構無理気味)。
小説版だとなにを誤魔化すことができるのかというと、ここからもろにネタばれというか妄想垂れ流しですが、兄・泉水と弟・春が同一人物であるという可能性です。

小説版『重力ピエロ』は多重人格(最後まで二人だけなので二重人格といっても可)の話として読むことができるように書かれています




前回本を読み終えたところでは書きませんでしたが「多重人格の話として書かれている」のではなく「読むことができるように書かれている」としたのは最後の最後まで多重人格であるとはっきり示されないからです(!)。


「書かれてない?それじゃあそれはおまえの思い過ごしではないか」と言われそうですが違います。明らかにそう読めるように書かれています。なぜ言い切ることができるかというと、その点こそがこの小説の中で一番手の込んだ、力の入っている部分だからです。


連続放火事件が起こるので一種のミステリーとしても読めますが、謎ときはそれほど難しくありません。ネタばれしますが鍵となるアルファベット(ローマ字)はアデニン・グアニン・チニン・シトシンのA・G・T・Cの4文字しかなく、しかもそれぞれの対応も1つずつしかないのですぐに分かります。また登場人物も極めて少ないため誰がどういう役割をになっているのかはほぼ自動的に決まってきます(例外は会社の同僚くらいでしょうか)。


っと、多重人格の話に戻りますが「泉水と春が同一人物ではないか?」と思わせる記述が話が進むにつれ徐々に露骨になっているのが分かります。それは「泉水と春、どちらも英語ではspringだ」という逸話から始まり、「本当に(春から)電話が掛かってきたのか?」という自問を経由し、最後の「霧につつまれた校庭の場面での二人がほぼ重なっているかのような描写」に至る様子を見れば分かります。


この「徐々に」という調節はけっこう面倒でそれは放火事件の謎なんかよりずっと手間が掛かっているはずですし、逆もまた然り、ほんとうに二人が二人の兄弟として存在しているという描写がないというのも意識して避けているとしか考えられません


で、あるのに!せっかく小説の頭からお尻にいたるまで綿密に仕掛けておきながら最後まで明かさないまま終わってしまうのです。ふつうなら「ドヤ!」って感じで披露して終わるはずなのに。伊坂幸太郎め!


しかし映画では第三者の前で掛かってきた電話を受けるためこの多重人格説は冒頭ではやくも消えてしまいます。ひょっとすると音がなったりバイブレーションを見せずにいきなり会話から始まるような撮り方であればなんとかなったかもしれませんが、そうではなかった。


ということで映画版『重力ピエロ』はただのドラマになってしまっている。小説版のときでさえそれほど込み入った謎ではなかった連続放火事件は映画版ではさらに扱いが軽くほとんど謎ときには興味がない脚本になっています。ではドラマとしてはどうかと。


春のストーカーだった夏子さんの心霊写真かと見まごうばかりの映りこみっぷりには笑いましたがそれ以外では見せ場はなく、つまり整形後の夏子さんを演じた吉高由里子についてみるべき場面はありませんでした。主役の二人はわりと難しい役をそれなりに演じていたし父親役の小日向文世もいつもどおりの安定感で悪いところはありません。連続強姦魔役の渡部篤郎は『レス・ザン・ゼロ』のロバート・ダウニー・Jrに匹敵するかのような「それ演技じゃなくて地だろ?」的なクズっぷりでなかなか素晴らしかったです。


とはいえ全体を通してみた場合ドラマ映画としてもいまいちであったと言わざるを得ません。


一家の苦しみの原因が「妻・母のレイプとそのレイプによって生まれてきた弟」という状況にあるわけですが、春という存在が実は泉水が苦しみの末に作り出した自身の多重人格であるほうがよりその苦しさを際立たせることになります。父親にしてもレイプによって生まれてきた子供を受け入れるだけでなく、それを苦にして多重人格となった息子・泉水を「泉水と春」という二人の兄弟としてそのまま受け入れ育ててきたことになるため、その異常なまでの寛容さ・精神的な強さが明確になります。これは二人を二人として追いかけそれぞれに対応していた夏子さんについても同じことが言えます。十分に間をとって「泉水には連続放火なんてできない」と答えた探偵も彼の能力の高さ(人を見る目)を示すことに繋がります。


だいたいDNAって二重螺旋ですよね。それも「泉水と春のセットで一人」、ということを暗示しているようにしか見えません。


小説は小説、映画は映画でいいし実際そういう作り方になっていましたが、どちらがより凄いかというと私は小説『重力ピエロ』であると断言いたします。いやあ、最後までそのまま行ったのはほんと驚きました。