この空の花 ―長岡花火物語 【Kono sora no hana: Nagaoka hanabi monogatari:2012】

見たのは昨日だけど。みなみ会館は『狼の死刑宣告』以来。その前は『ピンポン』だったかなー。相変わらずいつつぶれてもおかしくない雰囲気。嫌いじゃないけど。


7割8割くらいは入ってたかな。小学生の子供連れもちらほら。


で、肝心の映画ですが「すごい!すごい!」という話を目にしていたのでわざわざ見に行ったんだけど、予想と言うか期待していたほどの「すごさ」は感じなかった。ただ分けの分からなさはけっこうなものでいまだに頭の中にぼやーっとした物が残っている。そういう意味ではすごいのかもしれない。


長崎のローカル新聞の記者遠藤玲子松雪泰子)が18年前に別れた片山(高嶋政宏)から届いた手紙をきっかけに長岡を旅する。片山は高校の教師をやっており手紙には生徒が『まだ戦争には間に合う』という舞台をやるので見て欲しいと書かれており、偶然同じタイトルの新聞連載を書いていた新潟日報の記者井上和歌子(原田夏希)に約束を取り付け、彼女に長岡を案内してもらう。


太平洋戦争末期の長岡の空襲(左近に落とされた模擬原子爆弾含む)と戦後その慰霊のために始まった長岡の花火、2011年3月11日の東日本大震災原発事故(長岡市では被災者を受け入れている)、2004年10月23日の中越地震で被害を受けた山古志村(片山が住んでいる)、模擬原子爆弾からのつながりと長崎出身で母(藤村志保)が被爆しているということから広島・長崎の原爆、幕末の戊辰戦争米百俵パールハーバー山本五十六(長岡出身)と、時代も場所もバラバラないくつもの話が、人が、息つく間もないくらいどんどん入れ代り立ち代り、見ているこちらはまったく休まることがない。


映像もおかしい。とてもおかしい。これほど顔のアップ(それもカメラ寄りすぎだろ?と思うような)が連続する映画はみたことがない。まず初っ端、松雪の顔のドアップ。彼女がカメラに向かって話しかけてくる。半分劇中の人間だけど残りの半分は画面からこっちへ飛び出している。それは彼女だけでなく片山(高嶋政宏)もそう。井上和歌子(原田)はそういうシーンはなかった。おかしいのは遠藤と井上が川べりを並んで歩きながら会話しているのに二人とも右を向いて話しているシーン。遠藤は本来左にいる井上に向いてなければいけないんだけどこちら(カメラ)を見ていたりする。


町の人に戦争の記憶をインタビューしてまわるところもすべて役者がやっている。彼らもこちらに向かって話しているけれどもそれはインタビューに答えているからであって映画を見ているこちらに向かってるわけではない。


なんだけど、すべての登場人物に同じ感覚を、空気を感じていた。へんだなと思っていたけど途中で、彼ら役者の演技がこれでもかってくらいヘボというのかな?演技演技していてまったくもって不自然だったからであることに気がついた。なんといえばいいのかな、普通の映画やドラマでいえば劇中劇を演じている、あのわざとらしさ。


さらに驚いたのは、映画の中で数名「誰それのモデルとなった○○さん」という字幕で紹介された一般の人が戦争の話をするシーンがあるんだけど、その人たちまでどこかわざとらしい演技をしている役者のように見えたりしたところ。


とにかく映画全体がなにか浮いてるように見えていて、ちょっとひっかけてペリペリと剥がせそうな、そんな感じ。合成の画面も初監督作品『HOUSE ハウス』のときと同じような出来で、いまであればもっと自然な仕上がりが可能なはずであるのに、明らかに意図的に浮いて見えるようなそんな合成だったりする。


時代も場所もバラバラ、話も一応長岡の大空襲をメインにしてはいるけれど、ごちゃごちゃといろんなものが絡められていて、しかも画も演技も浮いている、半分現実であるこちらにはみ出したような変な映画。


にも関わらずぎゅっ…ぎゅぎゅっ・・・と心が動かされる瞬間があった。話なんて関係ない。それは女性ふたりが川べりを歩きながら歩いているシーンだったりするし。


はっきりいってよく分からない。でもそれは『気狂いピエロ』や『サテュリコン』みたいな分からなさではない。いちおう「反戦」みたいなメッセージがあるんだろうけどちょっと違う。少なくとも自分が感じたのはそういうものではない。


なんていったらいいのかな。この映画に出てきた土地はすべて自分とは無関係なところばかりだった。せいぜいが「京都も原爆投下目標の一つで模擬原子爆弾が投下された」ってことくらい。だけども。


だけども、なにか歴史を感じたというか、今ここに生きている自分と映画で見せられたものが地続きだということを感じさせられたというか。血肉と繋がる歴史を感じたというか。とても奇妙な感覚。


はっきりしてるのはこれから見る花火の見かたが変わったということくらい。





(これは長岡の花火ではありません)