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まだ公開されていないよなので今のうちに書いておく。
きっかけは昨夜のこれ。
どちらもお読みになった上で、真面目に訊いておいでなら、いい機会だからお答えします。どちらも、或いはどちらかしか読んでおらず、冷やかしならスルーします。“@berohashi: ちなみに『日蝕』はどこがパクリなんでしょうか。「何となくパクリだと思った」ってことでしょうか。
(強調は私による)
で、そのあとはずっとこの話題に流れて、こういうのや
正直なところ、十年前、あれを書いた時には、読めば誰でも気が付くと思っていた。十年経って、中傷として、或いは冷やかしとしての反応しか返ってこないことがはっきりした。残念だけど、私が当たり前と見なしていたような読解能力は誰にもなかった訳だ。
(強調は私による)
こういうのや
そういう揶揄や中傷で煽り立てるのではなく、真摯に訊いて来る人はいなかったね。だから本当を言えば、最も親しい人に対してさえ、どうせそう思ってるんだろうという気持ちは持ち続けていた。RT @berohashi: これまで一度も「いい機会」はなかっのですか?
(強調は私による)
こういうのが続いた。
ちょっと苦しかった。特に最後のやつは心臓がきゅってなった。少し前にも「すんごい酷いこと書こうとしたけどやーめた」みたいなtweetを読んできゅってなったけど。
私は『鏡の影』しか読んでいない。対象となっている本もたまたま話題になっていたので読もうとしたけれど5ページほどでやめたし、『黒の過程』も序盤で読むのをやめてしまったし。
つまりそういう読み比べに対して興味があまりなかったし、当然いまここでもそれについて言えることは何もない。
なので今回も純粋に大蟻食先生の読者としての、読み手としての能力、技、着眼点やら論じるための背景となる知識なんかを読めるのではないかと思って正座してる(こたつなので、ということも一因ではあるけれど)。
あの@berohashiという人のようなつっこみは、じつは自分だってやっていたかもしれないタイプだという自覚があるので(今回のような内容には興味がなかっただけで、しつれいなことはたくさん書いてしまっているのです)、その後の非難tweetを見ていてすこし背筋がひんやりしました。はう。
といいつつちょっと書いてみる。外側から、純粋に可能性の話として考えられることをすこし。
ウェブ上だけですがいろいろ読んでみたことがあって、誰だったかは、ぜんぜん似てない、と書いていたのを覚えている。でもわたしは大蟻食先生の書かれているものを、本はもちろんウェブ上の文章も読んでいたのでどういう方なのかについては私なりの判断、評価をもっていたので、一見危ういような話に見えるんだけれど、実は大丈夫なんだろうと思っていた。
一連の文章を読んでいたときに思いだした事件がひとつあって、それは作曲家の小林亜星(役者もしてたひと)が服部何とかというひとを盗作で訴えたことがあって、そのときに二つの曲を聴き比べる、というようなことをTVなどでやっていたんだけど、私にはぜんぜん違うものにしか聞こえなかった。ただ小林亜星自身が会見している様子を見て、はっきりと確信をもっているのがわかった(訴えるぐらいだから当たり前だけども)。
一方、これとはぜんぜん関係ない文脈で、ポップスやロックの曲を作るときに実はパターンはそれほど多くないので似ているものはいっぱいある、といったような話を何回か聞いたことがあったので、知識のない自分にはわからなくとも、プロや実作者ならばはっきりわかる相違というものが存在するのだろうな、と考えるようになっていた(実作者でなければわからない、ということではない)。
ということで、これも知識のないひと、読む能力の低い人にはわからなくとも、読む人が読めばはっきりしすぎるほどはっきり見えるのかもしれない、と。そういうふうに眺めていた。
具体的な話はもちろんできないので「BがAを参照したかどうか、どのように判断するのか」技術的にどういう可能性があるのか考えてみると。
どんな小説も先行する小説や論文などいろいろなものを参考、土台に作られだろうから、それはそれでいい。そのまんまだし。ただ「参照してませんっ」と言ってるけどほんとはしてるよね、と言うときはちょっと面倒。
そこで考えられる方法はなんかないかなと。
いろんな先行作品から影響は受けるだろうし、多くの人が使いまわすような文章、構造、アイデアもあるだろうけど、とうぜん書き手によるオリジナルの部分、初めて作り出された部分もある。ちなみに科学では新規部分がないと価値はゼロとされる(検証作業は別として)。
そのオリジナルな部分から影響を受けているところがあったとしたらどうだろう。そのオリジナルな部分が参照されていたとしたら、もっと言えばそこがコピペされているのが見えたとしたら。
もちろんそこがオリジナルである、と判断するためには膨大な数の先行作品を知っていなければならないし、逆にその数をたくさん知っていればいるほど、そのオリジナル性が強くなっていくわけで、大蟻食先生などはそういう状態なんではないかと想像している。
でも、たまたまオリジナルなところが似てしまいました、という“可能性”はある。その場合は先行作品(先行といったって直近だと思いますけど)についてのひどい不勉強を指摘されることはあっても「参照してません」とは言える。この場合どうするのか。
それはBという小説を仔細に眺めればわかる可能性がある。その「Aのオリジナルな部分」を「参照したと思われるBの部分」がBぜんたいの流れ、構成から見たときに浮いていたりいびつなハマり方をしていた場合、つまりBという小説を良いものにしようとするともっとほかに書き方があっただろうというような場合。へたなコピペだな、という判断になる。
私の脳みそではこれくらいしか思いつかなかった。
疲れた。ふう。