新幹線で『金毘羅』読み直したり文庫版のあとがきを読んだ。あとがきでも金毘羅とか言ってるよこのひと。えーと思うんだけど、自分ではやっぱりこれはどうしようもなくフィクションだ。とも書いておられる。


 振り返った時に金光が見えた。

 眼鏡の隅に水滴が溜まっていました。階段の照明は黄色い電球です。分厚いレンズの水が光を浮かべて、振り返った首の位置の視界に侵入し、たーっ、と流れた。廊下を横切った。普通の錯視です。

『金毘羅』307ページ



ここを読んだとき、私の脳裏に新しいイメージがサッと現れた。それは水木しげる調の絵だった。この場面、笙野さんぽい「私」は水木しげる風であるべきだと。


この前は宮崎駿がアニメにすればいいと書いたけど、それは野生の金毘羅の描写であって、「私」は水木しげるが描くべきだ。


いや、ここはそういうビジュアルの話だけでなくて、なんというかもっとこう、劇的な効果があったんだけど私に対して。でもうまくいえないわ。口惜しい。


新幹線ではこの『金毘羅』のほかに『醜聞の作法』を読み始めた。意外だったんだけどすーーっと読める。スラスラ進みすぎて返って恐ろしい。何かの罠ではないのか?と。つづきはもっと慎重に読もう。


ほんとに序盤の序盤だけどメモ。


ルフォンはそれなりに、という以上の高い能力を持っている男であるにもかかわらずさらっと、それほどたいした事はないんだよーみたいな描写のされ方で、これは大蟻食作品では良く見かける感じ。これまでどおりなら、やっぱり凄いんじゃんかー!という場面がのちのち用意されているはず。


あと、恥ずかしながら「潮垂れる」という言葉が読めなかった。意味はなんとなく分かったけど。「しおたれる」なのね。