やれやれ、ダゼ

もうね、関連する数名のエントリーがすべて長いから読むだけで大変なんだわ。でもやってみる。


あ、そういえばメリメ、2ちゃんでちゃんと書いている人がいた。(笑)おやはや(笑)って人。“おやおや”と“いやはや”を足して2で割ってるのか。すげえ。でもさすがの( ̄ω ̄)獲る狸さんでもあの「裏の窪地で射殺」ってとこだけではわからんだろうなぁ。


もとい。6月3日の内容を整理してみましょう。

大蟻食の意見のまとめ

要するにプロパガンダとそうでないものの二つに分けることができる。そしてプロパガンダのほうは“表現の自由”の原則を曲げ、法によって規制しても構わないと考えている。その実例として

を挙げている。これはブクマで、彼らが最初共産主義者を攻撃したとき
を引き合いにした

エロゲ規制は“表現の自由”を際限なく後退させる一歩になる

という危惧に対するまったく逆方向の回答になっている。

つまり

差別的プロパガンダとしてのカリカチュアやフィクションや「ゴキブリを殺せ」が人間が何をしでかす土壌を作り出したのか、我々は既に知っている。表現を舐めてはいけない。たとえ絵に描いたものにすぎないとしても、それは確実に、人間の心に何かを刷り込み、作り出す。

であり、それらを規制しなかった結果がホロコーストでありルワンダの虐殺であると。これが“表現の自由”の原則を曲げてでも規制すべき理由としている(かのエロゲの場合は、性犯罪につながるということになるのだろうか?)

私の考えたこと

規制はOKとしてもその基準はどこにあるのか?もちろん答えは“プロパガンダであるか否か”となるわけだが、その切り分けの基準はどこにあるのか?となると判断は難しい(『地を這う難破船』では俺基準による判断は認められない、とされていたあたりに相当するのかな?)。


大蟻食先生の“表現の自由”対する考え方で、え?と思ったことがあったが、それはまさに前出の『ターバンのムハンマド』のカリカチュアについて書かれた日記を読んだときだった。

ムハンマドカリカチュア事件についてである。例のデンマーク製の、手榴弾型ターバンをかぶったムハンマドを「私はムハンマドを描いてはいけない」という文字で描き出したカリカチュアイスラム教徒の憤激を呼び、一方、言論の自由を守れとばかりにヨーロッパ各紙が転載したり支持の記事を載せたりしている、という、あれだ。

(強調は私)



たしか私はこのニュースを聞いた時に、「別にいいじゃんこんなもん。こんなことでまた死刑宣告とかだしやがったらそれこそムスリムキチガイ集団ってことになるだろ?」などと思っていたはず。だから、これを読んだときに「へ?」ってなったのを覚えている。これに近いかも。

俺の中での文学者像は規制とか絶対に許さないイメージだったので、佐藤亜紀切断操作にはただただ驚くばかり

切断操作って意味が良く分からんけど。便所糞虫て。

でも特に噛みつくこともなく、半分スルーっぽく扱ったのは、“私が無宗教というか信仰を持たず、信者の気持が分からないから”というのが理由だった。他にも大蟻食先生の宗教絡みの日記(日記: 2006.2.7とか日記: 2006.5.22)はよく分からないので基本黙ってます。


このときにも当然『悪魔の詩』が出ていて、もちろんラシュディを支持する、と書かれている。

切実な理由があって描いた人にファットワが下されたので抗議、というのでもなければ(念のためお断りしておくが、「悪魔の詩」については私は断固ラシュディ支持である。ラシュディがまた西側文化人の尻馬に乗って下らないことを言い出さないといいのだが)、こんなカリカチュアはまるで意味を為さない。




そしてこの文章の中にこそ、プロパガンダであるカリカチュアとそうではない『悪魔の詩』の違いが書かれているんだけど、信仰を持たず『悪魔の詩』を読んでいない私にとっては、いまだ曖昧なままだった(というか今でも)。


なんとか絞りだして考えるなら。“ラシュディ事件に対する抗議ではない”このカリカチュアはただのカラカイに過ぎないから、ということだろうか。


一方『悪魔の詩』に関する評価については

 ところでこう言う人達を相手に、だっておれたちは元々ある種の混血じゃないか、と指摘するくらい危ないことはありません。それを見たくない一心で原理主義者になる訳ですから。サルマン・ラシュディがやったのはまさにそれでした。「悪魔の詩」までのラシュディの作品は、否応なしに欧化したイスラム教徒の陥るジレンマを扱っていたと言っていいと思います。「東と西」という短編集では、あんまり出来がいい短編集とは思わないですが、東か西かという選択は不可能だ、と言う宣言をしています。確かに、今や我々にそれ以外の途はないと言えるでしょう。迂闊にそんなことを言うと原理主義者に殺されちゃいますけどね。
 ところで、曝されている状況は同じであるにも拘らず、不幸なことに日本には、そういう形で利用できる宗教はないし、移民もいないし、外敵もいない訳です。

ぐらいかな?他にもあった気がするんだけど見つけられない。本で読んだのかもしれない。


まぁ文学的に優れているということなんだろうなぁ。結局、評価基準は私には掴めない。

ただ、ある種のヒントは書いてある。それは

あまりにも政治的すぎる見解、と言われることは承知している。絵空事に過ぎる、と言われる可能性はもっと承知している。ところでこの絵空事とは、実際には何なのか排他的な信仰に基礎を置く二つの文化が、相互の不信感と敵意は消え去ることがないとしても、当座は潰し合いに至ることなく休戦状態を保つことだ。もしざっくりした「司法の介入」でこの休戦が贖えるとしたら安いものではないか。




結局のところ、切り分けるためのきれいな基準なんてものはなく雑多な集団のせめぎ合いでしかないんだけども、なんとか休戦状態に持ち込んで衝突は避けたいと。


こちらもヒントか。


ここのところ、ちゃんと頭を冷やして読むように。ゲームが即実践に繋がる訳ではないことは、誰もが承知している。それでも嫌悪と恐怖は押さえがたい。感情論であることは間違いない。ただし、感情論を克服することは、感情論であるだけに、非常に困難だ。克服させることに至っては事実上不可能である。




こちらもスッキリ切り分けることは難しい、ということに繋がるな。


上にあげた『悪魔の詩』にしても、大蟻食先生はプロパガンダではないと判断しているけれども、そして西側、ヨーロッパは擁護しているんだけど、イスラム世界ではそう取られなかったのだし、つまりせめぎ合っているわけだ。


で、要するに大蟻食先生の基準はここにあった、ということだろう。このエロゲはアウト。


その理由も書かれている。

差別? そんな言葉で諸氏が想像なさるようなぬるいもんじゃないですよ、我々が日々直面してるのは。たとえばハッテンバに迷い込んだら男だって強姦される(されないって。彼らには君らと違って分別がある)、だから女も外をうろつく以上(電車に乗って会社行って帰って来るだけですが何か?)強姦されるリスクを呑め、と書く奴(そう考えている奴も幾らでもいるだろう)が顕にしているのは、理不尽な、ほとんど呆然とするしかない憎悪だ。ただし五月蝿く咎め立てしようとは、今はもう、思わない。普通のことだからだ。普通に、日常的に、会社にいても社交の場にいても、家族や交際のある相手と一緒でさえその存在を忘れられないくらいに、そこらにあるものだからだ。

こんな時代錯誤な話を書いた理由が何かと言えば勿論家父長の所有物であることが幸せとは思わないが、こうも日々、そこら中で剥き出しの憎悪に曝されてる時に(特に勤めてたりするとるとね)、憎悪の行為に他ならない強姦をマンセーして、ヴァーチャルなんだから文句も言えないでしょざまあみやがれテヘッ、とか言う奴を見ると、こういう奴がぶち殺されるのを見る為ならそれだって我慢する、という気にもなる訳だ(永遠に死んでろとは流石に言わないけどさ)。

変態性欲で差別されているという陵辱エロゲ愛好家の皆様、そういう、いつ殺されても不思議はないくらいの憎悪に日々曝されていると感じながら生きておいでかな? 怯んだら負けだと自分に言い聞かせて生きておられるかな? 恐怖のあまり反対側に振切って、ゲームをしているところを怒り狂う女どもに見付かって八裂きにされる想像じゃないと抜けない、というところまで追い詰められた人はどのくらいいる? 女なら、幾らでもいるだろう。差別とはそういうものだ。

このあたりぜーんぶが理由なのだ。にぶちんには分からない恐怖がある、ということらしい。



ちょっと長すぎて、分からんようになってきたな。明日もうちょい綺麗に整理してみよう。