ハーモニー

これを読んだ。


ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)




いやぁ、おもろかった。『虐殺器官』を読んでから読むほうがよさそうね。


以下、ネタばれしますので、未読の方は帰れ!いますぐ帰れ!


「ただの人間には興味がないの」

『ハーモニー』p20




と言い放つある意味主役である御冷ミァハ(みひえみぁは)が出てくるんだけど、どう読んでも涼宮ハルヒであります。名前の付け方も似ている。とはいえ『ハーモニー』に出てくる日本人はみんなこんな名前だったりする。この一人称小説の語り手も、霧慧トゥアン(きりえとぅあん)という名前だ。


ただし、彼女たちは自分たちが、昔の人たちが考えていた未来人を体現した存在、しかもそれが永遠に続くかのような錯覚に陥るほど変化に乏しい、そういう存在なので未来人という言葉はちゃんと抜いてある。

まるで宇宙人や超能力者でも持ってこなければ話にならん、と求婚者に理不尽を告げるかぐや姫のよう。

p20




また同じ個所に『好き好き大好き超愛してる』という舞城王太郎の著書名が出てくる。ということで、クスリと笑った俺はすでにProjectの罠に落ちていたのだった。


重っ。読み終わったときの感想は、重ぉ。ある種の昂揚感があって幸福なんだけど、書かれている中身は重くて、ハルヒや王太郎のような軽さとは無縁だったりする。でも伊藤さんは小説に入れるくらいだから好きなんだろうな。頭文字Dも好きなんかな。


とりあえず、思いつくままメモしていくので(いつも通りだ)、ぐちゃぐちゃですが。途中まで読んでいて、これは『虐殺器官』とよく似ているなと思っていたんだけど、途中で、これは似ているのではなくて『虐殺器官』の世界のその後について書かれたものであることが分かる。クラヴィスよ、お前は自分が考えていた以上にすんごいことをしてしまったのだよ。


で、それはそれでつじつまが合ってるしいいんだけども、では大災禍(ザ・メイルストロム:SFじゃぁあ!!)の原因となった虐殺の文法について、その存在は軍の記録にも残ってるだろうし、公聴会でも話されただろうし、合衆国がなくなっていたとしてもユージーン&クルップスが生き残ってるくらいだから、それなりの記述があっていいと思うんだけど出てこない。さらにWatchMeシステムを考えると、当時以上にその機構が解明されていて当然だと思うんだけど出てこない。なぜなんだろうか。


この『ハーモニー』と『虐殺器官』は表裏一体というか同根の世界になっている(はちくろさんが言ったことだけど)。



虐殺器官』ではことばによって「自分」と「他人」の間で情報交換する、そしてそこに虐殺の文法が存在することができる、ということが重要なポイントだった。虐殺器官は生存の危機に陥った時の、個あるいは小さな集合体の生存適応性のために発達した器官ということになっていた。

一方『ハーモニー』では“「自分」と「他人」の差異”=「自我」を放棄し、小さな集合ではなくホモ・サピエンス全体の集合体としての生存適応性を最大にする、個体間で完璧に調和のとれる“個体の完成形”(蟻や蜂のような存在)が柱になっている。こちらの世界では個は意味を持たない。集合体として生存できればよいのであって、そのために誰が生き誰が死ぬことになっても問題ではない。主体は集合体そのものなのだから。可換な個はただの数でしかない。

そうと知った上で山を下りたトゥアンはその時本当にWatchMeをオフラインにしていなかったんだろうか。彼女は周囲の人間を失って独りになったけれど、『神に見捨てられし民』トゥアレグゾーニングされたバグダッドの、生府の外側に生きる人々やまったくの同類である螺旋監察官ウーヴェの存在を知っている。そんな彼女が本当にあちら側の世界へ行ってしまったのかどうか、現時点でははっきりとはわからない(なので読み返すと思う)。


ということで、大変面白かった。ジョークのような引用もあれば『攻殻機動隊』のギミック(WatchMeと電脳は似てるよね。自我とはなにか、とか)や『ダークナイト』でジョーカーがつき付けた究極の選択(僕はあれを見て、どちらかがスイッチを押すと実は自分のフェリーが爆破して沈む、というのを予想してたんだけどな)も出てくるし、気付かないだけでそのほかにも多分いろいろと面白いものが埋まっている気がする。


『ハーモニー』ではetmlタグによって文章ごとにいろいろな情報が付与されているんだけども、実はそのタグなしでもトゥアンの感情がなまなましく伝わってくる(というか勝手に感じ取っている)。これは『虐殺器官』のクラヴィスとは対照的だった。ということで、やはりクラヴィスはかなりアレな人格だったのだという自分の結論が今回補強されました。


だってさ、母親が危篤状態だというときに、

これだけ人が目の前から消えていってしまっているのに、いまさらどうしてあわてるなどという贅沢が許されよう

虐殺器官』 p135



とか

世界と言うものがそうあるべき唐突さを、またあらためてむき出しにしたにすぎなかった。

p135



などと言っているし、

お望みどおりだ、クラヴィス・シェパード。危険はたっぷりだし死体もうんざりするほど見れた。それでいて自分は死んじゃいない。自殺であはるけれど戦友だってちゃあんと失った。

p139



とか言って自虐的だったりする。クラヴィスは作戦行動用にマスキング等の調整を行っていない場合でも、素直に感情に流される、ということがなく、感情の波が立とうとすると瞬間的にそれを察知して打ち消すための逆位相の波を発生させる。


もちろん、ひどく鈍い人間でないかぎり誰だって似たようなことをしているだろうけど、これをクラヴィスのように徹底しているとやっぱりどこか壊れてしまうとも思う。あと、子供時代からすでに言葉を実体あるものとして感じていたというのもどこか精神的に危うい素地を感じる。己自身を突き放したあの記述は離人症のようにも感じるし。


それに比べれば、『ハーモニー』のトゥアンは健康的(いい悪いではなく)だ。『虐殺器官』のウィリアムスを素直にしたような感じ。


あ、そうそう。どこを読んでたときか忘れてしまったけど現代だって似たようなことはあると思った。兵庫県南部地震。強固なコンクリートの建造物に囲まれて安心しきって暮らしていたのに、実際は脆かったというあの状況。高速が横倒しになったり駅ビルがぺしゃんこになったりビルがまるまる一棟倒れて道をふさぐなんてだれも想像してなかった。あの哀しいまでの間抜けさ。どこ読んでて思い出したんだったかな。


もうどうでもいい。とにかく書いておく。『虐殺器官』『ハーモニー』に続く物語があるとすれば、それは生府vs生府外住民の話か、消えてしまったはずの個としての意識にある日ゴーストが!!みたいな話になるという予測を書いとく!