ふたりの証拠

これを読んだ。


ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)




なぜこれだけ表紙の写真がないのだ。ま、いい。


読んだのはこれで2回目か、3回目か。にもかかわらず内容はほとんど覚えていなかった。ま、いい。


一番最初に『悪童日記』を読んだときは、文字通りに受け取っていた。あの極力余計なものを排除した文章をそのまま受け取るという、いま考えるとオカシイような読み方をしていた。きっと本当に俺のあたまがおかしかったのだろう。共産圏なんてこれくらい殺伐としているもんだろうし、リュカとクラウスについてもああいう子供もいるんだろう、くらいな感じで読んでいた気がする。しかもあまり違和感なく。


しかし、今回『ふたりの証拠』を読んだときにはその感想がすっかり変わってしまった。ま、あれだ。リュカにもごく普通の、そこらにいる人間ぽさを見出してみただけなんだけど。というか俺がいわゆる人間らしさをリュカに与えて見たのだ。そうするとどうだ。すんごい揺さぶられてしまった。頭がクラクラした。


リュカの周りに登場する人たちも、いま日本で読んでいる僕から見る限りどこか異常で薄気味悪い変人のように見えるけれど、同じ人間であると理解するきっかけ、これはまあほとんどが革命というか体制側によってひどく傷つけられたという過去だけども、そういったものが与えられて、じわじわと恐ろしさや哀しみが湧きあがってくる。


リュカが書き続けてきたノートには、できる限り余計なものを排除した必要最小限の言葉しか書かれていない。そしてこの本自身も同様に、物体の描写と人が実際に発発した言葉、しぐさの描写しか書かれていない(なので最後の役所の書類らしき段落以外、リュカの書いたノートではないかとも取れる)。


たしかに、“うなだれた”という単語が使われていると、その言葉には落ち込んでいる気分というものがついて回るけれど、せいぜいがその程度であって、いわゆる心理描写は一切書かれていない。僕が人間らしさをリュカに与えた、というのはその最小限のことしか書かれていないスカスカの行間に、自分の頭の中にある経験や知識をもとにして考え出した人間らしさ埋め込みながら読みあげていった、ということになる。よぅ、ということは俺が読んだこの『ふたりの証拠』の大部分(分量的に)は俺自身が作ったということだ。なんてこった。これこそ『ストラテジー』ではないか。こういうことだったか。極端な例だからわかりやすいのかもしれない。


文章をスカスカにすればするほど読者に任せる/任される領域が広くなる。感動しようがしまいが、泣こうが泣こまいが、それは読者の埋める能力に掛かっているというこった。恐ろしい。脳みその中身を映し出す鏡のようなもんだ。


リュカ自身はその行間をどこに持っていたんだろうか。リュカの場合、彼と他者との会話からみると、その行間にあたる部分を書きつけないだけでなく、めったに顔にも出さず、普段の生活の中にもあらわしていない。胸のうちか。そんなことが可能なんだろうか。