バチバチバチッ

くるくるな子が、いくら年寄りだからといってこもっていてはいけないと諭すので仕方なく出かけました。というのは嘘です。


今日は本物のお年寄りに連れられて出かけました。豆柴の仔犬くらいのつもりで後ろにくっついてお出かけ。3月1日から始まっている東大寺二月堂のお水取り。正確には修二会というらしいです。その修二会のお松明を見学して参りました。


いやぁ、人出が凄かった。二月堂の下に着くと既に黒山の人だかり(おっ一回で言えた)。





手振れが臨場感を与えてマス。素晴らしいデス。


その人ごみを掻き分け(済みませんでしたおば様方)、お堂へ。





これがお堂の様子。そこそこの人がいらっしゃいます。早い時間に行けば入れるのです。僕はお寺の偉いお年寄りに豆柴のようにくっ付いていったので入れて貰えました。






人ごみです。すごいねぇ。裏口(じゃないけど)から入ってゴメンナサイ。






日が暮れて物凄くほっそい月(手振れ)が見え始めた頃、観客のおおっという声とともにお松明がお堂脇の階段を上ってきました。






お堂の正面へ出てきたところで一旦止まります。そこでお松明を欄干に載せてぐおぉおおっと突き出したり引き戻したり回転させたりじっと待ったりします。





これが回転前。で、こっちが





回転後。ぐわっと炎が大きくなってます。





走るところ。ぐわっと。





松明のクローズアップ。杉の葉が見えます。これでも12日の大きな籠松明に比べると小さいのです。これを朝作り夜燃やす。作った人が自分の松明を持つということなので、大きく燃えない松明を持った人は新入りの人だと思って間違いないということだそうです。綺麗に燃えるものを作るには見た目だけでなく杉の葉の詰め方が大事で、乾燥しきったものから生のものまで様々な葉を上手く詰めてやらないといけないということでした。新入りさんは頑張りましょう。12日に使用される籠松明は大きいので、竹も特別に京都の福知山や綾部の竹林から持ってくるということでした。籠松明にすると1本80キログラムになるそうです。それを75歳まで担いで走ったおじさんは偉い。というか驚異的。僕無理。ワン!

この修二会のメインイベントである法要が営まれているのは、お堂の中にあるさらにちいさなお堂=内陣というところで、そこは外の騒ぎとは無縁な極めて厳粛な空気が漂っていました。1ヶ月弱に及ぶ儀式はお坊さんにとっては結構きつく、肉体的にも精神的にもまさに修行と呼ぶべきものらしいのです。


薄暗い内陣に揺らめくロウソクの灯りに、すぅと音も立てずに移動する僧侶、幽かに聞こえてくる読経の聞きなれない独特のうねりを持った音声。


読経には強く惹きつけられたけれども僕は正直、少し怖かったのでした。お堂は閉じられているわけではなくて、それどころか正面はおおきく開け放たれてさえいるのに、数歩内部に入るとまったく違う空間が広がっている。いや、広がってはいない。すんません、勢いで書いてしまった。逆になにかが押し込め圧縮されているかのような雰囲気でした。物理的にはただとても古い木造の建物で、暗いだけということであるのに、実際すぐ傍まで近づいて感じたのは“ああ、これが結界の内側なのか”と素直に言えるような、静謐と異常なほどの緊張感が固着したような奇妙な感覚。人の作り出す空気、儀式と言うものの持つ威力を実感いたしました。


内陣のなかに見える白いブロックはお餅だそうで、2月24日と3月5日にそれぞれ1000個あまりを作られるということでした。使うもち米がそれぞれ3石と1石5斗だそうですが、よくわかりません。石(こく)って。家庭で使う単位は精々斗(と)だし。お餅は終わった後お寺関係の方や寄付された方に配られるということです。


終わった後にも関係者以外立ち入り禁止(裏方さんの現場)なところをちょちょっと見せていただきましたがなにやら懐かしい雰囲気の空間が広がっていました。21世紀に。


いやぁ、かなり面白い体験をさせていただきました。ありがたや。お年よりはたいせつに。