第五回講義 その二

昨日は“ノンフィクションにおける顔”『意志の勝利』の話でしたが、今日は“フィクションにおける顔”です。

『そして船は行く』

教材はフェデリコ・フェリーニの映画『そして船は行く』です。


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ここで豪華客船に乗りあわせた、陸では雲の上にいらっしゃるらしい方々の食事風景が映し出されました。僕はこの映画初めて見たんですけど、気持ち悪かった。青い軍服を着たデブの金髪とかあまりに奇妙な感じだったので凝視してしまい、ついには吐きそうになった。画面の質(画質じゃなくてなんというかテクスチャというか)や口の動きと台詞があっていないことも原因だろうけど、なにか顔が気持ち悪かった。


もとい。この映画の設定は1914年であり(これはタイタニック沈没の2年後にあたる)、登場する役者の顔はエドワード朝時代的な顔、あの時代の写真にあるような顔をえりすぐってキャスティングした映画であると説明がありました。つまりセットや衣装だけでなく顔についてもある種の時代考証を試みたということでしょうか。


エドワード朝でぐぐると雰囲気が分かるかもしれません。


→ “Edwardian perion”google画像検索

→ “Edwardian era”google画像検索


あってるのかどうかわからないけど古い写真って面白い。


もとい。大蟻食先生はこの映画に出ているピナ・バウシュPina Bausch)というバレエダンサーが物凄く美しいと絶賛。見たことないなと思っていましたがこの映画で『カフェ・ミュラー』を踊るシーンがあったらしい。なんとなく覚えてる。


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もとい。一方『タイタニック』では衣装もセットも相当に頑張ったけれども顔が現代人のままであったので哀しいかな本物の『タイタニック』には見えない一方、顔にこだわった『そして船は行く』(おもちゃみたいな軍艦とか出てくる)は対照的であるということ。


『そして船は行く』では一見個別的に見えながらも実は類としての「顔」が強烈に効いており、キャスティングにおいてアウグスト・ザンダーに似た意図があったはず。この映画の「顔」における単純化ヴォルテールの『カンディード』に似ている。


映画では基本的にこの「顔」しか映らないので、それが単純化されるということは行動・心理までもが単純化されていると考えてよい。


・・・だめだ。追ってるだけだなぁ。ちょい飛ばそう。


ノンフィクションである『意志の勝利』におけるニュートラルな類としての「顔」は洗脳の“結果”である一方、フィクション『そして船は行く』では類としての「顔」を創作の一技術として、つまりある効果を作り出す“原因”として用いることがある。こういうことかな?


人が“類型としての顔”をそれとして認識するということは、その顔がどういう類に属するものであるかがひと目で分かる特徴を備えている(逆に個別性は薄い)ということであり、なおかつ大多数の人間がなんらかの共通した認識の基準を持っていなければ類型顔をそろえた効果(フィクションにおいて)は現れない。


視覚に関して人間の意識をもっとも強くひきつけるのは「顔」で、かなり強力である「文字」さえ敵わない。それは「顔」の認識が赤ん坊のときから始まっている一方、文字はある程度成長した後に学習しなければならないので当然といえば当然だけど。いろんな物(車のライト)や壁や天井のしみ(オバケ!)のなかに顔を発見してしまうこともよくあることなので実感として分かる。じゃぁ類型としての「顔」の認識についてはどうなんだろうか。


これは目や鼻、口、耳の配置だけではないはずで、つまり赤ん坊よりはもう少し後になってから身に付く認識基準があるはず。人種と言い切ってしまうと違う気がするけど、つい先日NHKアイヌを扱った番組を見たとき、僕は“アイヌの顔”に“アイヌの特徴”をはっきり感じた。そのときのことを思い返してみると。配置だけじゃない。ひとつひとつのパーツの形や色までも含めたかなり複雑(数値化するには、という程度の意味)な判断基準がありそう。


そういえば、大蟻食先生のアウグスト・ザンダーの話や冒頭のナチの話(『バルタザール』にも出てきた人類学だっけ?ああいうのも含めて)によれば、彼らの試みはどうやら失敗しているということだけど、反対にフィクションにおいては類型顔をキャスティングすることによってある効果(『そして船は行く』では類型顔でない女の子がひとりだけ混じっているとか)を生み出しているという。この二つの話はなんとなく矛盾している。


最近、笑顔を自動認識してシャッターを切るカメラが売られている。ロボットなどでも、人間の表情を読み取ろうとするものも研究されている(表情を再現しようとする人型ロボットさえある)。ここでははっきりとある種の数値化が行なわれているはずで、これもある程度成功していると言っていいんだろう。種々のパーツの色・形・大きさ・配置、キャンバスとなる顔の大きさ、さらに言えば表情筋による動き・仕草、そういったものすべて(他にもあるだろうけど)が認識の基準・軸となっているので、総合的な判断を行なうのはかなり難しいけれど、現在の技術であればけっこういいところ(曖昧だなぁ)まで行けそうな気がする。


大量にデータを集めて各要素のメディアンを決定、そこから±○%までは類型として扱える、それ以外は個別性の強い顔なので役者になればいいよ!とかおみくじがぶぶぶーと出力されるプリクラみたいなおもちゃができるかもしれん。いや、既にいまあるプリクラはお客さんにないしょでこっそりデータを集めているかもしれない。そうに違いない。そのデータを使ってなにやら次世代マシンをつくるんだろう。まったく商人というやつは抜け目が無さ過ぎるな。奴らなら藁山から針を見つけたり砂漠でダイアモンド見つけたりするのもお茶の子さいさい朝飯前なのだ。きっと本気を出せばラクダだって通してしまうんだろうな!それくらいしないと億万長者にはなれんのだ。ちがうな。そんだけできれば億万長者になって当たり前なのか。ん?


激しく脱線してしまいました。えーと、「顔」の話だった。え?もう夜中の1時ではないか。僕がこれまでに見たなかでいちばんの美女の話を書こうと思っていたんだけどなぁ。やめやめ。寝よ。