今更なんだよ、という感じなんだけどもちょっと引っ掛かった感じがあるので書いとく。あぁ、これってノドに魚の小骨が引っ掛かったような、あの感じ。魚食べてないからこの10年は骨なんて引っ掛かってないけどな。ごはんの塊を飲み込むんだったな。ん?何の話だっけ?


あ、そうそう。これですよ。

壁に何やらチュチュらしきものを来た美少女の甘ったるい複製画(本物には高い値が付いてるんだろうが、まあ、目を遣る値打ちもない屑だ)が掛けてある一室であった。



いやね、なんとなくってのはよくないですね。チュチュって知らなかったのにもかかわらずちゃんと調べなかったのね。ググレカスググレ俺ということで



これはあれですよ、バレエ少女ということなのですよ。しかもwikiのページにはドガさんの画があるじゃないですか(しかも日本語ページも英語ページも)。これは大蟻食的にどうなんですかね。屑。なんだろうか。


あれだよな、いっちばん最初にチュチュ着た女の子描こうとした人はエライってことになるんだろうか。『裸のマハ』が衝撃だったのは初めて描かれた人間の女の裸だからって聞いたんだけども、これだと美術史というかそういう歴史的な文脈から見た価値(審美とは違う?)ってことになるでしょ。そうするとチュチュ着た子を初めて描いた人って偉いんじゃないのと。初めてチュチュ着た子に美的な価値を見出したってことで。


とか書いていて自己解決しそうだ。写真だと分かりやすいな。いくら綺麗に撮れていても絵葉書のような写真は屑に見えるからな。しっかしだよ、ある時“これは!”という作品が世に出てだよ、そのあと雨後の筍(←使ってみたかったの)のようにそっくりな作品が大量に世の中に出現するとだよ、元になった“これは!”“ああ、これね”という風に陳腐化してしまうのではないの?“まんまパクリ”の屑の山に埋もれてしまうのではないの?“悪貨が良貨を駆逐する”(←使ってみたかったの)って感じで。


でもさぁ、『ストラテジー』ではそういう歴史的な流れとは無関係な価値、普遍なものがあるって話だったような気がする。とするとだよ、どんだけそっくりなまんまパクリが大量に出て来ても、説明抜きに“あっこれは違うな!”という風に見つけられるオリジナルだけにしか価値が無いってことになるのか?それは物凄いハードルの高さだよな。ハードルというか棒高跳びじゃん。ブブカかよ!


音楽だってさ、有名なクラシックがさ、くそツマランCMのBGMとして大量に流されるとさ、うんざりするじゃん。あれは聞く側の問題か?それともその“名曲”には糞DOS攻撃に耐えるだけの力が無かった、つまり名曲ではなかったということになるの?


言葉にしたってさ、馬鹿が大量に連呼するような単語は、そのうち自分の口からは発したくないってなるよな。慣用句とか新聞記事のテンプレとか。描写の仕方が腕の見せ所になるってことか?例えば、夕日が沈む場面だけで2ページ使うとか?(いや量が問題じゃないんだけどさ、確か井上ひさしたんがさ…)


明治大学公開講座の話でも、映画の暴力・アクションシーンの見せ方だってさ、大量にマネされたとしてだよ、いっちばん最初にそれを撮った人の為したことの価値はさ、“いっちばん最初だったんだ!”という歴史的な文脈からの視点を廃してしまえば、無価値になりうる?


やっぱ解決してねーな。陳腐化と普遍的な美的価値ってのはどういう関係になるんだろか。歴史的な視点を入れるということは、その昔書いた(大蟻食さんに訊いたっけ?)同時代の作品としての価値を認めるってことにもなるよなぁ。あ、電池…ぎ…ギ…レ―――