明治大学での講義2回目の報告がチラホラ出ているので読ませていただきました(みぃで見かけたものにも分かりやすくて面白いものがあったけど、やっぱ引くのはダメでしょう)。うほぉ。偶々読んだレポートが上手く書いてあったのか、今回はなにやら愉しそうで、一段と羨ましさが募りました。んんん。

それぞれ、ちょっと長いけど、綺麗に纏まっているので引用します。

一つ目は、近代的な美の構造においては、「美しいものは人を驚かさなくてはならない」ということ。それは単純に「衝撃」とも言い換えられるが、その実相は、我々が日常を認識するために、自らの中に用意している「シナリオ」――認識のためのモジュール――を揺さぶるということだ。すなわち、存在し得ないはずの「シナリオ」を提示する、あるいは、繋がらないはずの「シナリオ」同士を繋いでしまう。そして、そこから生まれてくるのは、感覚・思考に対する衝撃であり、それこそが「痛み」である(ただし、これはフィクションと現実の安直な接続を意味しない)。




もう一つ。

 「今まで見たことのないものを見せる」ということは、言い換えると、我々が日常生活において無意識的に前提としていたシナリオが何らかの逸脱の存在によって無効となるということで、その時剥き出しになったものを見て、人は驚くとともに痛みを覚える。勿論、シナリオと逸脱のズレは徐々に吸収され、今までのシナリオを書き換えてゆくのだが、それには時間がかかり、それまでの間、衝撃は持続する。この時、あり得ない組み合わせによりシナリオが無効となった状況は、近代的な美の認識とほとんど一致している。




他にもシナリオとそこからの逸脱、その結果、痛みが生じるという話がいくつかあった。ここで言うシナリオとは、“常識”とか“暗黙の了解”、あるいは“お約束”と言い換えてもいいものらしい。おおざっぱに言って共通認識。これらを読んであることを思い出した。


それはもう随分昔のこと。いつものように夕暮れの中、近所のスーパーからトボトボと歩きながらの帰り道、交差点で信号が青に変わるのを待っていたその次の瞬間。


あれ?俺なんで止まってるんだ?歩いていけるよな、この状態だったら。馬鹿みてぇ。あ、そうか、俺は人間が決めたルールに縛られてたのか。ほぉ。みんな律儀に守ってるなぁ。馬鹿だろ。巨大地震が来れば目の前に頑丈そうなビルだってぶっ壊れるのにな、にんげんのきめたるーるだって。はははは。ただのことばだぜ。あほだ。みーんな、目に見えないにんげんがきめたるーると頑丈そうな人工物(つまり街)の中にすっぽり入って、生きていて当たり前みたいな顔してるけど、そんなもの一瞬で吹き飛んだっておかしくないのにな。ばかだ。(遠くに見える)あの山のなかへ身体一つで放り込まれたらあっけなく死ぬんだろ?だよなぁ。ものすご脆いくせに自覚がねぇんだな。ははっはっはは。


というようなことを一瞬のうちに考えた。これが多分、僕が“物理的な限界・制限”と“日常生活のなかで感じる限界・制限”とのズレを体験した瞬間。その前後で自分の目に映る世界が確実に変わっていた。なにやら目の前にある鉄筋コンクリートのビルの頑丈さがかえって滑稽に見えるようになった。


もう少し詳しく書くと。鉄筋コンクリートが頑丈という印象、先入観は一般的に日常生活においては共通認識としてもいいはずなんだけど、それが一瞬でぶっ壊れる可能性も十分ある。にも係わらず、その頑丈さを信頼して、安心しきっている(街中にいる)自分たち人間がマヌケで滑稽に感じられたということ。


これは、講義にあった“シナリオとそれが崩れた瞬間に生じる痛み”と同じか近いものじゃないかと思ったんだけど、僕の体験ではそれは痛みというよりは笑いだった。確かに、因幡の白兎のような皮を一枚剥がされた、剥き出しなってしまった痛さを感じていた気もするけど(特に頭周辺、耳の後ろ辺りがおかしかったな確か)。


でね。シナリオ=常識=お約束で埋め尽くされた世界(日常)から放り出されたときに、ひとつは痛み、もうひとつは笑いが生じるんじゃないかと思うんだけど、その分かれ目が、一体なにが違うから、痛みと笑いに分かれるのか。そこが気になる。ひょっとすると同じなんだろうか。


サリン事件なんてものは、物理的に可能であった(実際事件が起こった)けれども、まさかそんなこと(大量無差別殺人)を起こす輩がいるわけが無いという暗黙の了解・お約束・常識・日常を形作る一般市民の共通認識からすると、大幅にズレ、断絶があった。それが引き起こされた結果(犠牲)以上に衝撃だった。

あれはあまりにアレで、被害を切り離してしまえば(また、コスモクリーナー云々を無視したとしても)、僕はどこか笑ってしまいそうななにかを感じていた。それはやっぱりズレに対する反応。笑いというものがオツムのしゃっくり、痙攣のようなものという話をどこかで見た気がするが、ズレ、温度差、差異、捩れ?そういうものが刺激となった結果起こる反応、常には無い刺激による常にはない反応。そして自身の(笑うという)反応そのものに驚くこともある(あった)はず。

例の松岡君の“日本国万歳”でも、実はすこし笑った。「アメリカン・ビューティー」もコメディなんだよね(しつこいか)。あれを単純にコメディだとみることが出来なかったのは、前提としている共通認識が僕のものとコメディとして受ける人(アメリカンヤンキー)のそれとが少し違っていたから。しかしいくらアメリカンヤンキーでも、単純な笑いじゃないはずだと、痛みも感じているんじゃないかと思うんだが。痛みと笑いが混ざった反応。

兎も角。大蟻食さん絡みで気になる点が一つ。それは、同時代性。同時代に生きているもの同士であるからこそ存在する、そして享受できる美。それは『小説のストラテジー』ではあまり重要視されていなかったはず。

このまえ、新日曜美術館でモネをやっていたのをぼんやり見てたときにも同じことを考えていた。モネの絵(というか印象派)が与えた刺激がなにかというと、たぶんそれはそれまでの“絵ってのはこういうもんだっていうお約束”とのズレにあるんだろうと(あれはまんま見たって結構綺麗だと思うけど)。

で、そのズレを感じるということ。もちろん絵画の歴史なんてのを勉強すればそれなりに前後のズレについて理解はできるだろうけど、それはやっぱり当時生きていた人の感じたズレとは違うものじゃないんだろうか。講義でも同時代という言葉がでてきたらしいけど、その辺をもう少し詳しく聞いて見たい。ある意味、同時代にリアルタイム(重複??)で見たり聴いたり読んだりした人間には、同時代人としての特権があるのかもしれない。逆に歴史的な流れの中での評価ってのは同時代であってもある程度できるはず。それにプラスして、同時代であるからこそ感じるものがあるんでは?と。

長いな。結論としては。ネットってすごくありがたい。昔だったら雑誌か雑文集のようなものが出るまでまつか、下手をすると知らないまま終ってる可能性大だもん。現場ではすごく少数の人間しか係わってなくても共有できるようになった。そのための閾値がぐんと下がった。というようなことも結構おおきな変化なのではないか?というようなことを鉄道が整備されて行動範囲がぐんと広がったパリの話(新日曜美術館)を聞きながら思いました、まる