長いよせんせ

しょうがないか。

ところで私に対するいじめの原因は、現在ではほとんど気の付く者もいない軽度の障害に起因した。そしてこういうところに始まるいじめは「いじめられたりいじめたり」には絶対に至らないものである。僅かな相違、僅かな欠陥は、その人間を死に至らしめても構わないものとして認識される。集団は共犯意識で固められて非常に扱いやすいものになる。


どう見ても死に至らしめていいクズはいじめる側ですがだれか殺しまくったりしないんでしょうか。未成年、とりわけ小学生中学生あたりならば、自殺するよりは殺したほうがトータルではお得なんじゃないでしょうか。私自身が身を置いていた学校では生徒の8割くらいはできれば速やかに死んでしまえばいいのにという感じでしたが、多すぎでしょうかね(僕はこれでも控えめに言ってるんですけど)。

で、いじめたりいじめられたりと加害者と被害者がころころ入れ替わるストレス解消のための一種のゲームだという話をよく聞きます。ですが、そうやって役割を入れ替えているうちはどちらになっていてもお互いに同種の人間、あるいは仲間意識というものが底にあるので、深刻な状態にはなりえません。自分だって被害者側になる可能性があるから一線は越えないものです。

問題は、加害者側にはぜーったいにならない、加害者側を軽蔑し、仲間入りをしない被害者の場合です。始めのうちはゲームとしてもいじめレベルであっても、ターゲットがいつまでたっても加害側に阿り媚びる様子を見せない場合、攻撃はエスカレートします。それでも、被害者が折れない場合、これはもう、異物であって、加害側は仲間意識など持たない。

そうなると加害側はターゲットを仲間にすることは諦めますが、これで攻撃が止むことはありません。なぜならこれまで自分たちがやってきたことは当然知っているため、それを表ざたにされると困る(さらには自身の醜い側面をもっとも良く知る人間)という理由で、口止めのために更にエスカレートした攻撃が行われます。しかし次の攻撃は、「口止めのための暴力それ自身」を隠すために、もっと酷くなる。一種、暴力の自転車操業に陥るのです。これは数人からなるグループによる監禁、リンチ殺人も同じことです。親による虐待も同じで、最初はストレス解消のための暴力が、ある瞬間から隠蔽のための暴力に変わるのです。

ま、こういうのはいつの時代だって同じ仕組みで動くものでしょう。また、こういうことをする連中というのもいつの時代だっているものです。それも多数。ということで、僕は単に年をとっているからという理由で、高齢者を一様に敬ったりしません。高齢者のなかにも当然、このようなクズは多数いるでしょう。クズがクズのまま生きながらえてきたのかと思うと、いくら現在弱弱しい姿をしていても、全く容赦する気にはなりません。そう考えると、若年クズより高齢クズのほうが不快指数が高くなります。まったく、早く死ねばいいのに。


あの学校の教師や校長、あの学校を管轄している教育委員の連中などはどうみてもクズ側の人間です。僕が教師を一切信用していない理由のひとつは、教師自身生徒という身分を経験していながら、学校へ戻ろうと考えることそれ自体が信じられないからです。それは、クズでしかもガキという連中が作る集団社会がどういったものかを知っているということだけでなく、職員室の腐敗臭も存分に嗅いだ経験があるということですから。己が生徒であった記憶がないような痴呆や、生徒であったにもかかわらず醜さや愚かさに気付かなかった馬鹿、あるいはそういったクズと同種の人間だけが教師になろうなどと言い出すものです。


まともな頭を持っているならそもそも教師になろうなどと考えるはずはないのです。唯一の例外は、極めて高い倫理観と理想、突出した精神力および突出した能力をもったごく少数の教師だけでしょう。私はそんな人間みたことないし、いたとすれば教師より政治家や文部官僚になったほうがいいでしょう。


まあ、ちょっと考えれば分かることですが、学校というシステムは子供のためにあるのではなく、教員や役人といった連中に給料を撒くための職場であり、四六時中は子供の面倒を見られないという保護者たちといった大人のためにあるのですから、当然子供のことなど二の次になるのです。僕にとって学校が必要だったことなど一度もありません。一度も。