ミノタウロス 第二回

見落としていなければの話だが、第一回では主人公の名前は出てこなかった。ずっと『僕』だった。


で、第二回の296ページになって初めて『僕』はアンナという名の家政婦から『ヴァーシャ』と呼ばれた。でも、本当は、今回掲載された【前回のあらすじ】のところでヴァシリー・ペトローヴィチであることが本編中の記述よりも早く、しかもゴシックで宣言されていた。いいのか?これ。


ま、いいや。あと第二回にしてようやく気が付いたのは、ここまで会話文に『』が付いてないこと。地の文=語り手である僕の言葉と会話文が見た目では区別できない。会話文のこういう書き方は初めて読んだわけではないはずだけど、部分的に使われていたような気がする。『ミノタウロス』のようにずーっと使われ続けているのは初めてだと思う。


この括弧抜きの会話には何か効果があるのは間違いないんだけどもそれが何であるかを説明するのはあまり考えてない現時点では難しい。逆に、括弧があるとどうなのか。会話文に括弧がある場合、その会話は客観的に事実であるということが印象づけられる。読んでいる人間がその場を、映画を見るように目撃しているような確かさがある。ただし僕自身が語り手だからカメラ自身が目線になっているような感じになるんだろう。じゃあ、括弧が無い場合はどうなのか。なんだか全体がぼんやりとしてくる。ぼやけてくる。語り手の思い込み、想像、妄想、あるいは夢の中での会話という感じに取れる。


ミノタウロス』は僕=ヴァーシャが今のところ唯一の語り手で、何が語られているかというと自分が生まれる前、父親がどのように生きてきてどのように親になりどのように死んでいったのかということと生まれてからの僕自身のこと。回想だと思うんだけど、ユリイカの『ストラテジー』で出てきたようなオフィシャルな回想録とはちょっと違う。書くのではなくて話している。誰に話しているんだろうか。子か、孫か、嫁か、嫁候補か。それとも独り言、自分でぼんやりと思い返しているだけだろうか。


括弧のない会話がこれから先ずっと続くのか、どこかで僕が夢から覚めるように内向きの世界から抜け出て、現実の世界(時刻も現在)に戻ってくることがあるんだろうか。戻るにしては長い気がする。


ま、続きを読めというこったな。『ストラテジー』のほうで、ユルスナールハドリアヌス帝の回想録を取り上げたのは、『ミノタウロス』を書いてていたから、あるいは書くために参考にしたからだったのではないかとちょっと思った。けどユルスナールを読んでないから分からない。