ストラテジーもあるでよ(ちょっとだけ
いや、はや。
街中の気に入らない景色にけちをつけているWebページを引き合いに、景観ひとり論争をなさっておられる。導入部のゲロはヤリスギだと思うけどな。照れ隠し…ではないか。本気だな。
我々はここで生きている、文句あるか、という姿勢だけが、町を美しくするのである。サラ金の看板はそのままだとしても。
なんか分かるような分かんない様な。ま、妙にひきつけられる一文ではあるな。
同じことを言っておられると言い切る自信はないんだけど、これ。
- 作者: 辻邦生,小瀧達郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2000/06
- メディア: 文庫
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この本のなかで、辻さんはやっぱり東京の町並みはパリに比べてとても醜いと思っていたと、確かそんな風に書いていた。それがある時、突然それら醜かったはずの東京の風景がとてもうつくしいものに見えたという。その変化についての文章が確か、この大蟻食さんの日記に似ていた。
僕は、東京の風景なんて知らないんだけど、それを読んだとき、雑然とした景観など全く意識しないで出来上がった生きている町並みも悪くないなぁと思った。大体影響されやすいからな。椎名誠が書いたうどんの話を読んで、うどんがすっげー美味そうに思えてきて食べたくってしょうがなくなったり。冷静に読んでみるとどうみても只茹でただけのうどんの話なんだけど。
だが、しかし。個人的な感覚で測るしかないとは言え、やっぱり美醜はあるし、醜いと思う風景は多いと思うな。醜いというか、ぱっと見て落ち着かない、イライラしてくるような交差点とか、サッサと通り抜けたいような住宅街の道とかあるよな。そういう感覚を纏めたのが風水なんじゃないかと勝手に想像しているんだけど。大蟻食さんだってさ、『シザーハンズ』に出てくる住宅街が気持ち悪いとどっかで言ってなかったっけ(人違いかもしれない)。
それが証拠に、
確かに昔の同潤会アパートはよかったんだけどね。
と書いてある。この、確かにってところに、一般的なわかりやすい美醜の基準に素直に従ったというニュアンスを感じる。
あと、窓に何かを感じるってのはボードレールと一緒でしょ。
えーっと今日はもうちっとあるです。ストラテジーです。ストラテジーといっても6月号の第11回「国民作家の悲劇」はギアチェンジしたのかと思うほどぐーっと難しくなってるので、まだ読めていません。半数、半数ゆうてはるところで早くも引っかかってる。この前BBSに質問に回答をいただきました。同時に、質問の受付が2月以降6月分まで拡張されましたので、みんなっ質問しようよねぇ? 名指ししとくか。narren氏突撃ぃ!
長くなるけどいただいた回答の最後の段落を全部
AなるものはAである(とされている)からAとして語る、ではフィクションになりません。フィクションにおいては、Aが本来Aであることは周知の事実だとしても、その方が面白ければA'どころかBにもなりCにもなります。時々はAがAとして居座っていることもありますが、Bでもあり得るしCでもあり得る中での偶発的なAは、実はもうAとしての内実を失っている。これが、どれほどフィクションで真を語ろうとしても絶対に語れないし、語ったことにはならない理由です。
ここね、Aとしての内実を失っているってとこ。いや、まだちゃんと考えてないんだけど(またかよ俺)、分かる気がする。ポイントだと直感。
で、やっぱり4月、5月の質問を忘れてしまった。