あまりにも久しぶりで怖いなぁ。しかし突撃する。塹壕に篭って足腐ってもな。



ということで、とりあえずコメントの書き込める1月号を読み返した。正直しんどいな。とはいえ面白かった。前読んだときとは違うこと考えたりしたしな。


1月号はプラトンの『国家』を題材に、ディエーゲーシス(地の文)とミメーシス(会話文、声の模倣)について説明。ま、IとⅡはソクラテスの言う<真>について(つまり偽についても)の説明で、内容としてはⅢがメインか。


議論が発散しないように使用する言語の意味を厳密に定義するというのは科学にとっては当たり前というかそこが命みたいなもんなので、分かりやすいんだけど、科学以外に適用したら相当へんてこになってしまうし、そもそも厳密な定義づけの時点で議論の行方/結論が出ているという。ま、分かる。


そうやって定義付けた<真>なるものだけで話を進めた場合、詩人は追放されるというのがプラトンの結論。ここで、なぜ詩人が追放されるべきかといえば、それはミメーシス=会話文=声は詩人によって演技されるように演奏するが、ミメーシスにはどうしても<偽>が入らざるを得ないためという説明(た、多分ね)。


ま、無茶な話ですが、考えすぎる人にありがちな結論は常にそんなもんだよと。ちょっと思うのは詩人というか、プラトンにとって<真>なる役者は存在しえたんだろうかということだけど、訊くのもアレだし調べるのもしんどいのでとりあえず先送りにしておく。日本の能だったらOKが出たかも知れんね。

p240からの<真>ならざるものの引用はそうとう逝かれてるな。ま、これを読んだ現代の日本人がええー!っていいそうなものを選んで抜き出したんだと思うけど。なんというか共産主義国家(というかその為政者ね)に向いてるな、この均一性は。とか思ったら、最後に出た。

近代小説をポリフォニックなものとして提示した時、本質的に民主的なものだと主張した理由はそこにあります。   (p245下2)

多様性=民主主義ということだろか。あれね、最近よく聞く愛国心云々いう教育基本法(だっけ?)というやつも定義が問題なのかもね。多様性がないと非国民という単語が復活するんだろうな。


逸れた。

プラトンが考えるような意味における<真>は。同時に不動の<真>ですが、それはフィクションが求める<動き>とは真っ向から対立するものでしょう。これがホメロスが神々や英雄を、人間より何程もすぐれておらず、その様態において<真>ではないものとして書かざるを得なかった理由です。   (P241上20)

という部分。素直に読むとホメロスが<記述の動き>を欲したために、そこに描かれる神や英雄がほとんど人間と変わらないものとして設定したという意味にとれる。んだが、ホメロスは紀元前8世紀ごろだし、ソクラテスは紀元前4世紀くらいなんで時代が全然違う。説明が違う気がする。そもそもホメロスさんのいた頃の神様は人間臭くて、それをそのまま詩にしたんじゃないのかなと。



ということで突撃。


逝って来た。久しぶりで怖かった。しかしあのBBS進化してたのには驚いた。すげぇぜ。どんな進化したのか知りたいやつは自分で行け!! しっかし1月号読んだら4月5月号の質問忘れそうだ。


(p238上9) “賢明に抵抗を” は普通に読むなら “懸命に抵抗を”だと思うんだけど賢明でも意味は通じそうなので微妙。『国家』手元にないんだよね。
追記:確認した。やっぱり 賢明× → 懸命○ だった。