小説のストラテジー*10 殺人者のファンシー・プローズ

ユリイカ藤田嗣治特集。このところ藤田よく見るな、NHKとか。生誕120年?ともかく気色悪い表紙だな。そのうち佐伯とかもやるんだろう、へっ。


ま、それはそれとしてストラテジー。先月までも一応ちびちびと読んでいましたが、特別分からないところは無かったのでスルー。ま、取り上げている小説等がこれまで読んでないものというかかすりもしないものばっかりなんでね。


マルグリット・ユルスナールハドリアヌス帝の回想』の続き。


回想録という(虚構の)形式は強い単色声単声性(強いというのは語りにブレや分裂がないという意味)が特徴であり(p38上6)、“『ハドリアヌス帝の回想』の達成(何の?)はこの乱れのない声にこそある”(p39上9)という内容。


でもって、告白という形式は回想録という形式と似ている(?)けど違うけどそれはあとでやるらしい。この、告白はちょい違うよという一文でがあるだけで、逆に回想録というものがどういうものであるのかが理解しやすくなりました(個人的にはね)。


で、思ったのんだけども、この単声性を逆手にとって、徐々に分裂やらブレを挿入してやれば狂人の回想録なんてのもできるんじゃないでしょうか。この場合はそれを読んでいるという狂っていない第三者が話を進めたほうが分かり易いか。というようなことを習作『鶏を焼く』を読んで思ったのだよ(個人連絡)。


で、このあと、これはたぶん告白の例として大蟻食氏が史上最強の小説家とおっさるナボコフ『ロリータ』がいよいよ登場。まだ、途中なんだけども英語の部分読んだらすげー面白そうです。どきどきした。


で、ここまでに引っかかった点を挙げると

神も来世も死後の栄光も信じないという以上にそもそも求めない英雄性によって単声性はさらに増幅されます。

(p38上12行)



〜も信じないことによって単声性が増幅されるのは分かるんですけど、“そもそも求めない英雄性によって”が分かりません。“英雄性を求めないこと”ならなんとなくOKなんだけども。でっも、第9回の記憶があやふやというか読んだのか俺?みたいな状態なのでなんともいえません。復習してもわかんなかったら書き込んでみます(うっわ久々だな)。


次。↑で書いたところよりちょっと先なんですが、忘れそうなんで書いとく
『ロリータ』のおっさんハンバート・ハンバートの告白(裁判で、陪審員に提出予定)の記述が“文脈が横滑りし、別な調子へと変化する(p42下19)”といった点を指摘したあと

真面目なのかふざけているのか、何が嘘で何が本当なのか。見せ掛けはどれで実体はどこにあるのか、という思案は、全くの無駄です。

(p43下15行)



と仰る。←ここ引っかかった。というのはナボコフはどれとも判断が付かないようなバランスを意識して書いたんじゃないの?読んでる人間がおたおたおろおろするように書いてるんじゃないの?ということです。ならば、それ(仕掛け)に乗っかるのも無駄ではないでしょう。つか何に対しての無駄なのかという問題かもしれん。読んで、おたついて、さらに読み進めるうちに“あ、無駄だったな”となるんですよねぇ通常。というなら分かるけどな。ま、これも先を読まねば。


ところで、ストラテジーとあんま関係ないんですけど。

ユルスナール自身も『黒の過程』においては、過酷な外的状況に圧迫され、内から破綻して表情を失った《人間》たちの、「事故にでも遭った」ように生きて死ぬしかない無価値な生と死を、重苦しく時としてはぎこちない三人称で書く訳です

(p39上21行)

これ、知らんけど『黒の過程』の紹介文みたいなもんでしょ。凄いね、読んでみたくなる。あれ?ホロコーストとか?ま、とにかく凄そう。


つことで、以降は未読。