なんかね、生き過ぎ感がね

長いなあ

なにがきっかけで

思いついたのか忘れたんだけども。昨日電気消して真っ暗になった部屋のお布団(羽毛)のなかでタイトルのようなことを考え始めた。したら眠れなくなってしまった。真っ暗というのがいけないんだろうか。豆球(って言いませんかそうですか)という黄色い小さな電球は点けて寝たほうがいいんだろうか。あったかい牛乳の一杯でも飲んでから横になったほうがいいんだろうか。枕が合わない気もするな。


逸れた。ここのところ刺激がなくてね、ツマランなぁと。只時間に追われるというかいろいろな締め切りに追われるというかいろいろな請求書に追われていて忙しいのは忙しい。んでツマラナイ。で、長く生きすぎてる気がした。

このところどんなニュースを見ても

ドラマを見ても基本的に何も感じない。そうだ、思い出した。唐突ですが思い出しました。ばん御飯のあとダウンタウンだかはねるのトびらだったかをぼんやり眺めた所為でお笑いについて考えていたのでした。お笑いって意外性がないと笑えない。それまでの流れからぽーんと跳んだり、もっと大胆に断ち切ったり、ホンの少しずらしたり。舞台の上で実際に滑って転ぶのも意外性だし、言葉の上だけで転んで見せるのも意外性(もちろん決まりきったフレーうフレーズや動きを決まりきったタイミングで繰り返す新喜劇っぽいギャグ系の笑いもあるけど、僕は好きではないから除外しておく)。そうすると当然落ちが見え見えの漫才はあまり面白くない。

だから大御所の

喜味いとしこいしの漫才はダメだった。これは中身以前にすっごいスローなのでオチがわかってしまうので意外性が体感できないからだ。それでもきちっとしているからクスッと笑うこともあった。掛け合いのスピードといえばやすきよが群を抜いていた。スピードだけがあの笑いの秘訣だったとは思わないけど、とにかく速すぎてオチを読むどころではなかった。ちょっと逸れるけど。いつだったか漫才中にやすしが貧乏人を小馬鹿にしたようなことを言ったあときよしのほうが急に勢いづいてやすしをグイグイ押しはじめたことがあった。あのときのきよしのしゃべりには明らかにマジ怒りが入っていて、その証拠にやすしの顔が“えっ?”というような驚いた表情をしていた。あれを見た僕はやすきよは台本じゃなくてぶっつけ本番でやっているんじゃないかと思った。そうだ、思い出した。確かきよしがやすしの頭をはたいたのか体を押したのか忘れたけどやすしのメガネ落ちかけていた。それを掛け直すときの顔がびっくりしていたんだった。おもしろかったなあ。この話をしても誰も知らないんだけど誰か見た人いませんか?読売TVだった気がする。

で、話を戻すと

スピードもそこそこだし、流れからずらしたり跳んだりという技術系のお笑いであっても最近見ていて全然おもしろくない。で、その面白くない感じと日常生活のつまらなさが相まって眠れなくなったのだ。そういえばもの哀しくて布団(羽毛)の中でも寒かったな。で、なんでおもしろくないのかなあと考えた。で、ダウンタウン(まあ、松本人志)は間の取り方とかずらし方跳び方が独特であっていろんな種類を披露していたから面白かったんだという風にとりあえず結論した。ダウンタウンの意外性は新規性が高かった。それがいまではつまらないことが多い。

要するに

慣れてしまったということなんだろうなこれは。スピードにも慣れ、意外性のパターンも出尽くしたのか慣れてしまった。話すほうも聞くほうもスピードには限界もあるだろうが、意外性はどうなんだろうか。新しく出てきてもあっと言う間に慣れそうな気がする。あとは扱う話の内容の差別化しかないんだろうか。


とにかく、つまらない原因は慣れるということにあったのだよ。あたりまえだねえ。でもまああたま眠ってるしいーよな俺。で、慣れるってのは学習したってことなんだろう。学習するといえばどちらかといえば褒められるコトなんだけどこいつがこいつがこいつがつまらなさの原因だったのだ。と、ここで気がついたやっと気がついた。これはお笑いに限らず全てのことに共通している。毎日がつまらないのは日常生活に慣れたからだ。


と、毎日の生活を振り返ればどこをとっても慣れだらけだ。新規性が足りん。地味な生活をしていてもそこそこいろんな人に出会う。でも顔かたちといった見た目はもちろん、その性格や考え方、癖のようなものにいたるまで常にいつかどこかで見たことのある人ばかりだ。これは非常にツマラン。これまで生きてきたなかで一通り人間のパターンを見たんだろう。それに見てきた人間を色々なパーツに分解して要素を抽出しいろんな引き出しに記憶して作り上げたデータベースがあってそこから適当に組み合わせることでほぼ全てのパターンが作り出せる。んで新しく会った人でも既視感があるんだな。これすげーつまらん。カモーン横山元弁護士。

じゃあ、何か新しいこと

でもはじめるか、外国へでも行っちまえばよさそうなもんだけど、やる前から、行く前から大体予想がつくんだなこれが。で、結構当たるんだこれが。で、激しく落ち込むんだこれが。これも学習したおかげで未来予測の精度が上がってしまった所為だ。長く生きれば生きるほど知識や技術が身につくし記憶っつーデータベースもおっきくなる。大抵のことは脳内で済んでしまう。コレがいかん。


学習して成長し向上した結果がこのツマラナさかよっ。これを打ち破るのは大震災とか戦争くらいか?いんやそれでもダメだ。宇宙戦争くらい衝撃的でなければだめだ。いんや。宇宙戦争だっておさまった後は急速に元に戻りトムだって安い労働者に戻るのが目に見える。じゃあなにが残っているんだ。これが所謂出口なしか。


この前にも書いたけど。物を作るときにはもっと良くもっと良くと突き詰めていって実際に腕が上がるとそこからの進歩向上は死に掛けのカタツムリより鈍くなる。それを死ぬまでやり続けるのか?喜びが得られるんだろうか。ゲームをやっていればわかる。やっていると言うかやりすぎていればわかる。行き止まりしかない。少なくともゲームは行き止まりしかない。物つくりの中に無限が感じられれば生きられるんだろうけど、ある線に限りなく近づくだけの漸近線がはっきりくっきり見えたとしたら。自分があるエラーでゆれながらもその線上を歩いていく姿が頭に浮かんだら?その横軸である時間がもうそんなに伸びていないことが。時間軸が途切れるよりもずっと前に老化の所為で体が思うように動かなくなることだってじいちゃんばあちゃんを見ていれば判る。


自己新記録を追いかけ続けることなんてできそうな気がまったくしない。なんでも脳内で済ませるのは思い上がりだっ!実際にやればわかる!とにかくヤレ!動け!体を動かせ! って言われてもなあ。なあ。うーん。息が切れて耳が痛くなりのどが痛くなり体が古くなった硬いゴムのようになる。それでも続けていれば筋肉が多少増えて脂肪が多少減り体が少し軽くなる。でも、それだけだろー。違うのか?やってみる?

でも最後には脳みそが老化する

それまで身に着けてきた考える技術や判断能力、そして長年掛けて溜め込んだ記憶。目や耳といった感覚器官から送り込まれてくる現実の情報と脳内の情報の境目が怪しくなり徐々に混ざり始める。うわー。ばあさんが浮気してるんだ。アノ男のところへいってるんだ。だってここにいないだろ。とか大人用おむつ一丁で言ってみたり(いや隣の部屋でねてるじゃん、そこ!)。まだ昼飯食ってないぞ。とご飯粒くっつけたまま言ってみたり(さっき食ったろつーか目の前に洗ってない茶碗あるだろ)。天皇陛下バンザーイ!とかいいながら君が代を歌ってみたり(拝謁してるらしい)。


そこまでいって初めて毎日が意外性に、新しい刺激に満ちてくれるのか。って幼児に戻るだけですね。


はあ。何事にも救いはあるもんだ。


って。ねーよ。超根が恥部(←酷い変換だ!マイクロソフトに抗議する)ネガチブな俺がハッピーエンドなぞ認めるわけねえ。↑こんなもん。記憶のヘドロ澱を浚って高熱にうなされ現実と脳内の境界が消えかけて錯乱気味だった幼稚園時代の記憶(死ぬほど苦しいのに父さん母さんがこっちをみて笑っているぞ?!現実なのかこれは?)を呼び出したあと『敵』と『アフター0』を読めば、脳内で済むんだよばか。

アフター0 1 (ビッグコミックス)

アフター0 1 (ビッグコミックス)

敵 (新潮文庫)

敵 (新潮文庫)



いや、覚えたての

小見出しをいっぱい使いたかっただけです。