亭主閣下編

いや、ほんと申し訳ありません。なんというか、恥ずかしい嗚呼恥ずかしい。
ごめんなさい。許してくださいとは言いません兎に角謝らせてください。ごめんなさい。
しつこいか。

何かというと先日の http://d.hatena.ne.jp/ooh/20050613#p2 にこんなことを書いたのです。

はじめての写真だ。“虹”と“雲”(東京にも虹があったのだ!)空を眺めるなんてなにかつらいことでもあったのかな。小説が行き詰ってるとか。虹の橋詰には宝物だったか幸せだったかが埋まっているらしいので掘ってみてください。小説の神様が現れて「お前の探している原稿は金の原稿か?銀の原稿か?」と聴いてくるかも知れません。


この虹の写真が載っていた日記の日付は6月11日でした。
で、これ→虹を見たかい? - jkondoのはてなブログ
とこの中の日付別 - 20050611 - はてなフォトライフ

これを見ると一目瞭然なのでした。そう、この日東京に架かった虹はたいそう大きくかつ立派(2重)かつ美しいものであって、それがどれくらいのものであるかといえばたいそう多くの人たちの眼を惹き、さらにその中の多くの人が写真まで撮ろうと思うほどであったと。
近藤社長の日記に並んでいる写真で言えば2段目の左から3つ目、6つ目、同じく3段目の左から7つ目あたりの写真を見ればよーっく判ります(特に最後のサッカー場の虹はすごくきれいというかちょっと怖い)。

“いやでもあのちっこい写真じゃなーよーわからんよなー”とか“文章にはなぁーんも書いてないもんしょうがねーじゃんブーブー”といったことはこれっぽっちも思いませんでしたしこれからも金輪際思いませんよええ。自信ありますはい。


で、ついでにちとメモ。

悲劇はパロディという形式を受け付けません。あと、小説の形式について申し上げれば、初心というか、基本というものはどこにもなくて、その都度、題材に合わせて開発するものだと考えています。 "Anima Solaris 著者インタビュー:佐藤哲也先生"より 強調は引用者(つまりわしね

と。たぶんこれはご夫婦共通の認識なんであろうな。で、ウブカタ耳カッポじれという流れ。ま、形式とか型というものが指すものが違うのかもしれませんが。なんだか『サラミス』を読んでからどーも気になるんだな。『熱帯』も良かったんだけど特にサラミスからみょーに気になるようになった。なんつーかほれ原一男監督の映画で『全身小説家』という井上光晴密着ドキュメンタリーみたいな(見てないっすよ)のがあったけれども。佐藤哲也さんというのがこう“純粋小説家”みたいな感じがするのですよ。純粋階段みたいな。
それは何故なのかと。ちょっと(ほんとにちょっと)考えて頭が疲れたので飛びついてしまった結論というのはですね。あれですよ。小説以外の何かで佐藤哲也という人が迫ってくることがないのですね。ほれ、大蟻食さんなど喧嘩っぱやいとかヴァイオリンだとかボクシングだとかでもググッと時には暑苦しいほど迫ってくるのです。他の小説書きにしてもなんか評論ぽいことをダラダラ垂れ流したり、パンク歌ったりそういうものがあるんですけど。もちろん日記などをちらちら読んだり映画評などもさらさら読んだりしているのですがナニか違う。こういうものを読んでも迫ってこない。あ、クイック・ジャパン (Vol.60)も立ち読みしちゃったのです。結婚について四半世紀にもおよぶお二人の関係を大変要領よく短くまとめておられていてしゅしゅっと読んだ(やっぱり笑ってしまった)のですがやはり迫ってくるものがない。佐藤哲也という人の芯というか骨というかググっとくるものが小説しかないのです、そこが他の小説家と違う。銀幕のスターが私生活を全く見せないようなそんな。んぐ。ち、知恵熱が。この不思議な感覚についてはもうちっと考えなければならん。ということで
この項つづく。(←書いてみたかったのだ

で、下のはともかく虹についてお知らせしたいのでTBを大蟻食さま経由で撃つ。というのはいかにも失礼かとも思うので、大蟻食閣下の日記についてナニかつっこもうかと思うのだけどもその内容が当方の目を皿(沙羅のほうがいい)にして舐めるように読んだのだけども引っかかるところがないのでどうしようかと迷った挙句に迷いすぎて血迷うことにいたしました。

くらいしか書けません。あ、僕も殿様仕事ぶりは好きです。尊敬します。勝手に見上げます。できれば僕も殿様になりたいです。