僕の短所は忘れて欲しい

文句が更新されておりました。文句そのものもたいへん長いけれど、大蟻食さんの回答も長い。内容が内容なだけに。


前半部分の小説と伝記の違いというお話については、それほど難しい話ではないみたいです。日本ではその昔、ある作品をめぐって、ノンフィクションと謳ったフィクションではないのか?という話題が法廷に上ったことがあったと記憶していますが、あれと同じでしょう。ある意味科学的な手法で書かれたものが伝記ということになるでしょう。ということで後半へ。


これは、まぁまたか?という感じもしないこともないですがいじめ関連のお話。前回の日記における記述と今回の文句への回答をあわせるとこの話題についてこれ以上付け加えることはもうなく、ほぼ完璧な内容ではないかと思います。個人的に印象に残った、というか大事な点だと思ったところをいくつか。

被害者加害者が入れ替わり可能だったり、状況が違えば自分も加害者だったのかもしれないと考えることが可能だったりする状況は、そもそもいじめとは言いません。極めて多くの場合、この種の主張は、いじめがそもそもなかった、ないし、あったとしても些細なものであって、それに屈したのは被害者の責任だと言いくるめるために用いられる理屈です。



ちょっとアレなんで言いにくいけれど(w、「被害者でもあり加害者でもあった」という前置きは(ほとんど枕詞になってる気がしますが)、それに続くであろう主張に対する説得力を向上させる意味と加害者であったことに対する自身(あるいは自身が持っている良心の呵責、自己嫌悪)への免罪の意味が含まれています(少なくとも僕が読むときはそのように受け取る)。

まず前者の説得力向上は、当然被害者でもあったし加害者でもあったので両方の立場を体験し理解しているという点に拠ります。一方後者は

① 「私だって被害者だったんだよ」という立場の主張

ともう一つ、

② 「人間なんて弱い生き物なんだから加害/被害はいつだって入れ替わるものだし、つまり皆加害者にもなるんだからね、ね、そうでしょ?僕だけじゃないじゃん」



という主張の2つが考えられます。これらのうち①については少し考えれば分かることですが筋違いです。被害にあったからといって加害の罪が相殺されるわけではありません。しかし相殺されるような気がしてしまいます。②についてはもうアレです、路上駐車だとかスピード違反だとか本人が軽いと思っている罪に対してよく用いられる自己啓発前向き思考ポジティブシンキングでしょう。はっきり俺はクズだぜ!と開き直っている奴のほうがまだ対処しやすい。ということで、どちらに転んでも僕にはあまり良い解釈はできません。唯一、「それは本当はいじめなどではなく、仔犬や仔猫がじゃれあうお遊び、ゲームだったのですよ」という場合のみまぁねぇとお答えする事になるんでしょう。ただこれにしても、ゲームとは違う本当のいじめに対しても「それは大したもんじゃない」とそのいじめの深刻度を下げるノイズになったり、まさに“被害者の責任だと言いくるめるために用いられる”(上で引用した部分)可能性もあるので歓迎できません。まぁ、本人にしか分からないことはあるので、このあたりのことは言っても伝わらないかもしれませんが。


次。

更に、「泥人形」という言葉に対して何らかの誤解があると思います――正確には、魂のない泥人形、と言うべきでしょう。魂がなくても心があるように振舞うことはできますし、繊細な感受性を示しているように見えることもあるでしょうし、傷付いたふりもできるでしょう。外側から伺う限りでは、泥人形もまるで人間のように見えますが、魂がない以上、それは人間ではありません。



全く、人間などというものは皆同じようなことを考えるもんだなと普通なら気持ち悪くなるところでしたが、大蟻食さんなので逆に、「あ、俺は間違ってなかったな」などと俺エライ!モードに入りました。大蟻食さんは人間としての作者と作品の解釈は無関係だとどこかで仰ってましたが、まぁ作品といってもエッセイなどはやはりその作者その人をよく示しているものだと考えてもいいんでしょう。


閑話休題(←あってるよね?)。僕の場合は“泥人形”(これは、ファンタジー?)ではなくて“生ける屍”つまり“ゾンビ”という風に考えておりましたが、多分同じようなものでしょう。驚くべきはそこよりもこの話で“魂”という言葉が出てきたことです。大蟻食さんは信仰をお持ちのようなので自然なことかもしれません。しかし僕の場合は実質無宗教・無信仰ですが、この問題をずーと考えていたときにどうしても他の言葉ではしっくりと来ず、行き着いた言葉がやはり“魂”でした。ついでに言うならこの魂を傷つけることを人権侵害だと個人的に定義してます(とはいえ、魂の定義が出来ないので感覚的なものでしかありません)。また、いじめの被害者は魂を傷つけられると考えています。これが“神話的様相”なのかどうかは分かりませんけど。


次。

いじめによって、加害者は被害者の人間性を剥奪し、同時に自分自身の人間性をも失います。一度殺された魂を蘇らせ、取り返すのは大抵のことではありません。とはいえ多くの被害者は、傷や障害を引き摺りながらも魂を具えた人間として生きて行くべく努力するでしょう。



もうそのまま、まんま同じことを考えてましたが、ちょっとだけ。“一度殺された魂を蘇らせ、取り返すのは大抵のことではありません。”とは被害者のことだと思います。一方加害者の方といえば、彼らの魂は殺されたり傷つけられたりしたものではありません。それらが失われたり傷ついたとしてもそれは他者からもたらされたものではなく、自身の行為の結果であって、魂の自殺行為・自傷行為なのです。そして自ら放棄したあるいは傷つけたあるいは穢した魂というものを取り戻したり回復させることは、他者から奪われた場合よりもはるかに困難で苦痛を伴うことになるでしょう。それがどれほど困難かというとそれは、“その後一生自身をだまし続け、ゾンビのまま、生物学的に死亡するその日まで、周りの人間に対して腐臭を撒き散らし続けるほうがずーっと楽だと考えるほど”です。そもそもその困難に“打ち克つ”ほどでなくとも“挑もう”と思う人間ならばやすやすと己が魂を汚したり傷つけたりはしません。集団である、あるいは子供であることを理由にどっと流れてしまう連中というものは既に泥人形=ゾンビ予備軍となっていたと考えています。つまり文字通り“三つ子の魂百まで”です。


あ、“魂の存在に気付くきっかけになったんだからよかっただろ?”というのはナシの方向で。殺しちゃいますから。


にしても。

はらさんもお友達も人間の業に関する決定的な経験をせずに済んだ訳で、無垢の楽園に住んでおられるのは大層よろしいことではないかと思います。



にしてもこれはきつくないかい? 大体無垢の楽園で人間の業に関わらないまま生きてきたって有り得ないんじゃなかろうか。つまり。あんた悪人でないにしろそーとー鈍い、感受性死んでるんじゃねーの? くらいの勢いを勝手に感じてますがどうでしょうか。僕自身の経験や、連れから聞いた限り、そんな楽園実際はなさそうだし。ね。


兎も角。この話はこれで最後。大蟻食さんのもほぼ完結してるだろうし。大体よくこんなこと書かれたなと思います。ま、文句があったから答えたってことかもしれないけど、それにしても凄い。

にしても同じような話題を扱っていてもこちらの方はエライ違いです。

筑前では、同町役場にメールや電話が殺到、17日までに2500通を超えたそうである。

大半が町や不適切な言動をしたとされる元担任への抗議や中傷だという。

現場で実際に何が起こっていたのか、その空気は良くわからない。

だから、この元担任の教師を庇い立てするつもりはないけれど、彼に対する抗議や中傷こそがいじめっていうものではないのか。

多くの人が勘違いしているが、

いじめは正義感の欠如によって起こるのではない。

反対である。正義が多数と結びついたところに、いじめが起こるのである。



(注:この部分は孫引きになります)

はぁ? じゃあ今度からは抗議に対して“これはいぢめだ!やめろ!”ってちょん切っちゃうんでしょうかねこのおっちゃんは。組織によるくだらない処分などより多数の人間が怒っているということが分かったほうが、自分がどれほどのことをやってしまったのか理解しやすくなると思うけど、馘首になったり減給されたほうが痛みを感じるんだってくらい腐ってるってこと?そうかもしれんな。


あと、正義感なんてなーんの関係もないよ。それなんていじめ?ってくらい。


で、内田先生はこのあと“たこやき=人間”論をいつもの調子で滔々と述べ、

「上からの斉一的な教育改革」という発想そのものが教育を破壊



するんだと主張されてます。どんな具合かというと

「理想的なたこ焼きレシピ」を衆知を集めて作成し、「理想的なたこ焼きマシン」を作成して、全国のたこ焼き屋に配布し、それ以外のたこ焼き作成を禁じ、全国津々浦々どこでも「同じ味のたこ焼き」が食べられるようになれば、それで日本の食文化の水準が上がったと誇らしげに言う人間がいるだろうか。

いるはずがない。

あらゆるところでレシピが違い、道具が違い、焼き加減が違い、トッピングが違い、値段が違い・・・という「でたらめさ」がたこ焼きの質的向上と不断のイノベーションを可能にしているということに誰でも気がつく。



と、こんな感じ。先生はたこ焼きを使うことで笑いを取ろうとされたのかも知れませんが、図らずも(?)先生の教育観が露呈した気がしますね。レシピや道具やなんやかやと書いたところでやっぱりそれは画一的であることから逃れられません。文科省と同じでしょう。少なくとも同じ教室=同じたこ焼き器ではそろえましょうってことだし。僕は焼かれるなんてイヤだしドロドロのままでいたい!紅ショウガなんて死んだってかけられたりしないぞ!まだ犬に食われたほうがましじゃ。

人間もたこ焼きも一緒である。

「教育はどうすればもっとよくなるのか」という創意工夫を自分の責任において引き受ける人の数が増えれば増えるほど教育は「よくなる」。

当たり前のことである。



いやぁ、当たり前だとは思いません。僕は教師の仕事は如何に邪魔をしないかということだと思ってるので、教育の創意工夫に励む教師など御免こうむります。おとなしく座って月末の給料日と遠い将来の年金を待てとしか思いません。

政治家と官僚たちは(ついでにメディアの諸君も)お願いだから学校のことは忘れて欲しい。



ということですが、僕もひとつ。

先生たちにはお願いだから教育のことは忘れて欲しい。




これは蛇足だけど、先生は自分たちの子供時代については、一見問題児でしたと書きながらその実たいそう幸せであったと書かれてますね(でもT嶋先生が問題児二人を並べた処置が奇手だとは思わないし、特に慧眼というほどでもないっしょ)。で、

過去35年、文部省、文科省が音頭をとって進めてきたすべての教育改革は失敗した。



とも書いておられる。計算すると内田、平川両先生たち自身は失敗する前の良品ですよってことになりますか。


この先生はいつもおどけて自分を貶めたようなことをかかれますけど、実はいつも“自分は問題ないですよ、幸せですよ”としか書いておられない(いつもといったけどそんなには読んでませんけど)。ずーっと安全地帯にいながらずーっと同じ芸風で回っておられる。僕はそんな人信用しませんっ!だから、歯列矯正ビシっときめて、精神科にもキチっと通い、ジムでバッチしワークアウトしてるので、肉体も精神も極めて健康です!はい!ニカッ!歯がキラッ!みたいなアメリカ人は大嫌いです(いや、テレビや映画でしか見たことないですが)。でも時々は読む!